パリ移住・社会主義共和主義運動
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「ルイーズ・ミシェル」の記事における「パリ移住・社会主義共和主義運動」の解説
1856年、ミシェルはパリに移り、10区のシャトー・ドー通りで女性副教師として教職に就いた。ヴォワリエ夫人の元に寄宿し、夫人と母娘のような関係を長く続けることとなった。積極的な活動を開始したのはこの頃であり、以後15年間にわたって教育活動を続けた。1865年、ウードン通り24番地に通学制の学校を開き、1868年にはウード通りにさらに一校を設立した。文学にも関心を持ち、アンジョルラスという筆名で書いた詩を初め様々な文章を発表している。文筆で身を立てることを期待していたとも言われる。当時の著名人筆頭であり敬意の的であったヴィクトル・ユゴーとも間も無く知己を得、1850年から1879年までにはユゴーと文通を続け、詩も数篇送っている。ユゴーは「暗きユダヤ女ユデト」(Judith la sombre Juive)あるいは「ローマ女アリア」(Aria la romaine)などでミシェルを数奇で悲劇的な命運をたどった女性として描いている。 革命家のジュール・ヴァレス(フランス語版)、ウジェーヌ・ヴァルラン(フランス語版)、ラウル・リゴー(フランス語版)、エミール・ウード(フランス語版)らと交流し、『人民の叫び』(Le cri du peuple)などの反体制の新聞に寄稿した。1862年、「詩人組合」(Union des poètes)の会員になり。1869年には労働者支援を目的とする「民主教化協会」(Société démocratique de moralisation)の事務局を務めた。この時代のミシェルはブランキ主義者、すなわちオーギュスト・ブランキの思想を基礎とする革命的・社会主義的共和主義運動の信奉者であった。 普仏戦争の只中であった1870年8月、ミシェルはブランキ主義者であるエミール・ウードとガブリエル・マリー・ブリドー(フランス語版)の逮捕に対する抗議活動を行なった。第二帝政崩壊後の9月にはパリ18区の市民監視委員会(Comité de vigilance des citoyennes)の委員長に選出され、ここで恋愛関係となるテオフィル・フェレ(フランス語版)と出会った。物資に乏しいパリにおいて生徒用の食堂を開設。またモンマルトル区長であったジョルジュ・クレマンソーとも知遇を得て、女性、子供、連盟兵(gardes fédérés)が兵士を取り囲んで平和的・友好的なデモを行うことになった。一方で当時ミシェルは革命運動のうちでも無政府主義に近い極めてラディカルな一派に共鳴しており、アドルフ・ティエール政権を打倒するために当時政府機能が置かれていたにもかかわらず警備が手薄であったヴェルサイユを攻撃するべきであると考え、単身でヴェルサイユに乗り込みティエールを暗殺することを志願するほどであったが、賛同を得られず実現には至らなかった。
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