パリ解放まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 00:50 UTC 版)
「フィリップ・ルクレール」の記事における「パリ解放まで」の解説
北アフリカ戦線の終結後、モロッコでフランス人とチャド人混合の自由フランス軍第2師団を編成。しかし1943年6月、ドゴールの命令によりアメリカ式機甲師団への再編成がなされ、自由フランス軍第2機甲師団となった。なおこの時チャド人兵士たちはチャド行進連隊へと抽出され、現在に至る。1944年4月、イギリスのヨークシャーにてポーランド軍の第1機甲師団(英語版)とともに訓練を実施した。ルクレールらはビバリー(英語版)のホザン男爵(英語版)邸を司令部とした。 1944年8月1日、ジョージ・パットン中将率いるアメリカ陸軍第3軍隷下の第14軍団(英語版)とともにノルマンディーのユタ・ビーチに上陸した。パットン中将と軍団長のウェイド・H・ハイスリップ(英語版)少将はともにフランス語が流暢だったため作戦は順調に行われた。その後、ファレーズ・ポケットに参加。 詳細は「パリの解放」を参照 パリ駐屯独軍司令官コルティッツ将軍が降伏前にパリを破壊するという情報があったため、ドゴール将軍とアイゼンハワー元帥が会見して、ルクレール将軍率いる第2機甲師団が電撃的にパリに入城することになった。同年8月23日第2機甲師団のレイモンド・ディオンス大尉の戦車がパリ一番乗りに成功し、翌日ルクレールはコルティッツとモンパルナス駅で会見し、パリの無血引渡しに成功した。 1944年11月23日に第2機甲師団はさらにストラスブールの解放に成功し、ストラスブールには現在ルクレール将軍の銅像が立っている。
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