パリ講和会議の代表に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 16:48 UTC 版)
1897年(光緒23年)、父の伍廷芳に従って伍朝枢も渡米し、ワシントンで初等、中等教育を受けた。1905年(光緒31年)に帰国し、広東省で役人となる。1908年(光緒34年)、官費によりイギリスに留学して、ロンドン大学で法律を専攻する。卒業後はケンブリッジ大学大学院で、弁護士資格を取得した。 1912年(民国元年)に帰国し、同年5月に湖北都督府外交司長に就任する。同年9月、北京入りして外交部弁理条約事宜に異動した。1913年(民国2年)、広東選出の国会議員となり、国民党の憲法起草員となった。1915年(民国4年)、国務院参議兼外交部参事となる。1916年(民国5年)1月、袁世凱の皇帝即位に反発して、辞職・帰郷した。 同年6月の袁世凱の死去後に、伍朝枢は北京政府に復帰し、やはり外交部参事をつとめた。1917年(民国6年)の府院の争いでは、総統黎元洪を支持して、国務総理段祺瑞と対立する。9月、孫文(孫中山)が護法運動を開始すると、伍朝枢も南下してこれに参加した。孫文の広州軍政府においては、父の伍廷芳が外交部長、伍朝枢は外交部次長を務めるという異例の人事となっている。同年12月、王正廷らと共に南方代表としてパリ講和会議に出席し、ヴェルサイユ条約調印拒否に主導的な役割を果たした。
※この「パリ講和会議の代表に」の解説は、「伍朝枢」の解説の一部です。
「パリ講和会議の代表に」を含む「伍朝枢」の記事については、「伍朝枢」の概要を参照ください。
- パリ講和会議の代表にのページへのリンク