パリ軍事総督と降伏
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「ディートリヒ・フォン・コルティッツ」の記事における「パリ軍事総督と降伏」の解説
「パリ軍事総督」および「パリの解放」も参照 1944年8月、コルティッツはアドルフ・ヒトラーにより歩兵大将に昇進し、大パリ都市圏軍事総督に任命された。8月9日にパリに着任した。その後16日間、コルティッツはヒトラーによるパリ市死守命令、あるいは破壊命令を無視し続けることになった。1944年8月23日午前未明、レジスタンスや連合軍との攻防の末にいよいよ敗色が濃厚となったヒトラーは、コルティッツに一つの命令を下した。「敵に渡すくらいなら灰にしろ。跡形もなく燃やせ」という、彼の破滅的思想に満ちた最後の抵抗策であった。だがコルティッツは、その命令を得策ではないと判断し、結果的にパリ破壊命令を無視し続けた。 同年8月25日午後1時、痺れを切らしたヒトラーは、ベルリンから「Brennt Paris ?(パリは燃えているか?)」と叫び、問いかける。しかし虚しくも、彼が期待していた回答を得ることはできなかった。コルティッツ司令官は、パリを救った男として後世に名を残し、後に映画化される。 コルティッツは敵であるレジスタンス運動や中立国であるスウェーデン総領事のラウル・ノルドリンクとの交渉、またドイツ軍による示威行動(軍事パレード)や脅迫を取り混ぜることによって、パリ市内での市民蜂起を押さえ込み、大規模な市街戦や都市破壊を避けることに成功した。 8月25日午後3時前、コルティッツはフィリップ・ルクレール将軍の代理であるパリ市内レジスタンスの指導者アンリ・ロル=タンギー(フランス語版)大佐に降伏した。結局ヒトラーの破壊命令を無視し続けることになり、後年コルティッツは「パリを救った人物」と呼ばれるようになった。 ただし最近の研究(2007年1月10日放映Arteのドキュメンタリー番組)では、コルティッツは破壊命令を実行するだけの兵器を持っていなかった(空軍、砲兵を欠き、少数の戦車があるのみで、一部の橋と建物に地雷を仕掛けるのが精一杯だった)とも、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「自分を降伏後に戦争犯罪人として扱うなら破壊命令を実行する」と連合国側に警告して保身を図っていたともされている[要出典]。コルティッツは自身の司令部の防衛体制は固めており、降伏文書に調印したのも捕虜となった後のことであった。
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