パリ防衛軍の降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 00:51 UTC 版)
8月25日午前0時、アメリカ軍第4歩兵師団司令官レイモンド・O・バートン(英語版)少将は第12歩兵連隊(英語版)にパリ進出命令を出した。ルクレール少将も第2機甲師団の本隊を三つに分けて市内に突入させた。 各部隊はドイツ軍の抵抗と市民の激しい歓迎にあいながらも、午前11時30分には第12歩兵連隊がパリ南東部を占拠し、第2機甲師団隷下の部隊もエトワール広場、ブルボン宮殿に到着した。第2機甲師団部隊のうち、右翼を進んでいた一隊はドイツ軍の司令部があるオテル・ムーリス(英語版)近くに進出し、コルティッツ大将に降伏勧告を行ったが、この時点では受け入れられなかった。 正午、エッフェル塔の頂上にシーツで作ったトリコロールが掲げられた。この旗を掲げたのは、1940年6月30日のパリ陥落の日に、ハーケンクロイツ旗を掲げるため、トリコロールをおろすことを命じられた消防士であった。同時刻、内地フランス軍の兵士約200人がオテル・ムーリスの攻撃を始め、コルティッツ大将も降伏を覚悟し始めた。しかし彼は正規軍である米軍や仏軍に降伏することはあっても、内地フランス軍に降伏することはできないと考えていた。 午後1時、パリの状況にいらだったヒトラーはパリ廃墟命令が実施されているか、最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル大将に質問した上で、「Brennt Paris?(パリは燃えているか?)」と3回にわたって叫び、長距離砲やV1飛行爆弾、空襲などあらゆる手段でパリを灰にするよう命じたが、結局外部からの焦土作戦は実行されなかった。 午後1時10分、オテル・ムーリスの玄関に自由フランス軍のアンリ・カルシェ(フランス語版)中尉ら4人が乗り込んできた。正規軍と遭遇したコルティッツはこれを降伏の機会と考え、参謀を通じてカルシェ中尉に自分の部屋に来るよう伝えた。カルシェ中尉は司令官室に乗り込むと緊張のあまり「ドイツ語を話せるか」とドイツ語で叫んだ。「貴官よりいくらか上手だと思う」と答えたコルティッツは降伏する旨を伝え、司令部員は武装解除した。 コルティッツらはルクレールが司令部を置いたパリ警視庁に護送され、降伏文書を提示された。しかし、その文書にあったルクレールの肩書きは「フランス共和国臨時政府パリ軍政司令官・第2機甲師団長」であり、「連合国軍」ではなかった。するとその部屋に内地フランス軍イル=ド=フランス地域圏部隊隊長のアンリ・ロル=タンギー(英語版)大佐(通称ロル大佐)と内地フランス軍(フランス語版、英語版)に属する軍事行動委員会(フランス語版)(COMAC)共産党代表モーリス・クリーゲル=ヴァリモン(英語版)(Maurice Kriegel-Valrimont)が無理やり入室し、「ロル大佐にも降伏文書調印資格がある」と主張しルクレールと交渉し始めた。ルクレールと2人の交渉はしばらく続いたが、結局ロル大佐の調印参加が認められ、午後3時30分に降伏文書は調印された。コルティッツが降伏命令を各部隊に発出したことで、パリ市内のドイツ軍部隊は午後7時35分までにはほとんど降伏し、ブローニュの森にいる2600人の部隊を残すのみとなった。
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