降伏文書調印
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降伏文書調印式は9月2日に、東京湾(内の瀬水道中央部千葉県よりの海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上 で、日本側全権代表団と連合国代表が出席して行われた。 午前8時56分にミズーリ艦上に日本側全権代表団が到着した。日本側代表団は、大日本帝国政府全権外務大臣重光葵、大本営全権参謀総長梅津美治郎陸軍大将、随員は終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男、参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将(軍令部総長豊田副武海軍大将は出席拒否)、大本営陸軍部参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、大本営海軍部参謀柴勝男海軍大佐、大本営陸軍部参謀杉田一次陸軍大佐、内閣情報局第三部長加瀬俊一、終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎らであった。 先に到着していた連合国側全権代表団は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、中華民国、アメリカ、フランス、オランダなど17カ国の代表団と、さらには8月8日に参戦し、15日の日本軍の停戦を無視して満洲や択捉島などで進軍を続けていたソビエト連邦の代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。 9時2分に日本側全権代表団による対連合国降伏文書への調印が、その後連合国側全権代表団による調印が行われ、9時25分にマッカーサー連合国軍最高司令官による降伏文書調印式の終了が宣言され、ここに1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。 しかし、そのとき甲板ではカナダ代表が署名する欄を間違えたことによる4ヶ国代表の署名欄にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書の訂正がなされていた。具体的には、連合国用と日本用の2通の文書のうち、日本用文書にカナダ代表のエル・コスグレーブ大佐が署名する際、自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名した。しかし、次の代表であるフランスのフィリップ・ルクレール大将はこれに気づかずオランダ代表の欄に署名、続くオランダのコンラート・ヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥の指示に従い渋々ニュージーランド代表の欄に署名した。最後の署名となるニュージーランドのレナード・イシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり、結果としてカナダ代表の欄が空欄となった。 その後各国代表は祝賀会のために船室に移動したが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り、日本側代表団の岡崎勝男に署名の間違いを指摘した。岡崎が困惑する中、マッカーサー元帥の参謀長リチャード・サザランド中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが、「不備な文書では枢密院の条約審議を通らない」と重光がこれを拒否したため、岡崎はサザランド中将に各国代表の署名し直しを求めた。しかし、各国代表はすでに祝賀会の最中だとしてこれを拒否。結局、マッカーサー元帥の代理としてサザランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正することとなった。日本側代表団はこれを受け入れ、9時30分に退艦した。
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降伏文書調印
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「ヨーロッパ戦勝記念日」の記事における「降伏文書調印」の解説
詳細は「ドイツの降伏(英語版)」を参照 1945年5月7日午前2時41分、フランス・シャンパーニュ地方のランスにあった連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force, SHAEF) で、フレンスブルク政府のカール・デーニッツ元帥から降伏の権限を受けたドイツ国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将が連合国軍司令長官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥とドイツの降伏文書に調印した。文書での停戦発効時刻は中央ヨーロッパ時間で5月8日23時01分となっていた。文書にはソ連軍代表のイワン・ススロパロフ(英語版)大将が証人として署名している。正式な降伏文書調印はここで成立した。イギリスは当時西ヨーロッパ夏時間をとっていたため、停戦時刻は5月9日0時01分にあたる。 しかし連合国側は、第一次世界大戦のヴェルサイユ条約がドイツ国民に受け入れられず、「背後の一突き」伝説を生み出してナチ党の台頭を招いたことを繰り返す可能性を感じていた。このため連合国は戦場での降伏文書だけでは足らず、降伏文書の批准文書が必要であると考えた。この調印を行う人物は陸海空軍三軍の最高指揮権を持つ人物、ドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥でなければならないと考えられていた。ソ連側は調印式にアイゼンハワー元帥の参加を要請したが、かわりに副司令官でイギリスのアーサー・テッダー(英語版)元帥を派遣した。 5月8日、ベルリン市内のカールスホルスト(英語版)におかれた赤軍司令部(ドイツの工兵学校兵舎を利用した)にカイテル元帥らドイツ代表が到着した。調印式は同日正午すぎに予定されていたが、夜半までずれ込んだ。これは調印文書をロシア語訳するのに時間がかかったという技術的理由があったからという説と、連合軍側証人として参加する予定だったフランスのジャン・ド・ラトル・ド・タシニー大将が正式代表として調印に参加する事を要求したためであったという説がある。後者の説では証人の署名欄を代表のすぐ下にして準代表としての形を整える事でド・ラトルも承諾したとされる。 停戦時刻を過ぎた午後11時から、赤軍のゲオルギー・ジューコフ元帥とテッダー元帥、そしてドイツ国防軍のヴィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印した。連合軍側証人としてはド・ラトル将軍のほか、アメリカのカール・スパーツ准将が副署している。調印時刻はベルリン時間5月9日午前0時15分だった。 ただしヨーロッパで完全に戦闘が終結したのは、プラハの戦いが終結した5月11日の事だった。
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降伏文書調印
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詳細は「日本の降伏文書」を参照 降伏文書調印式は9月2日に、東京湾(内の瀬水道中央部千葉県寄りの海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦「ミズーリ」艦上で、日本側全権代表団と連合国代表が出席して行われた。 午前8時56分に「ミズーリ」艦上に日本側全権代表団が到着した。日本側代表団は、大日本帝国政府全権外務大臣重光葵、大本営全権参謀総長梅津美治郎陸軍大将、随員は終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男、参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将(軍令部総長豊田副武海軍大将は出席拒否)、大本営陸軍部参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、大本営海軍部参謀柴勝男海軍大佐、大本営陸軍部参謀杉田一次陸軍大佐、内閣情報局第三部長加瀬俊一、終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎らであった。 先に到着していた連合国側全権代表団は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、中華民国、アメリカ、フランス、オランダなど17カ国の代表団と、さらには8月8日に参戦し、15日の日本軍の停戦を無視して満洲や択捉島などで進軍を続けていたソビエト連邦の代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。9時2分に日本側全権代表団による対連合国降伏文書への調印が、その後連合国側全権代表団による調印が行われ、9時25分にマッカーサー連合国軍最高司令官による降伏文書調印式の終了が宣言され、ここに1939年9月1日から足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。 しかし、そのとき甲板ではカナダ代表が署名する欄を間違えたことによる4ヶ国代表の署名欄にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書の訂正がなされていた。具体的には、連合国用と日本用の2通の文書のうち、日本用文書にカナダ代表のエル・コスグレーブ大佐が署名する際、自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名した。しかし、次の代表であるフランスのフィリップ・ルクレール大将はこれに気づかずオランダ代表の欄に署名、続くオランダのコンラート・ヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥の指示に従い渋々ニュージーランド代表の欄に署名した。最後の署名となるニュージーランドのレナード・イシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり、結果的にカナダ代表の欄が空欄となった。 その後各国代表は祝賀会の為に船室に移動したが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り、日本側代表団の岡崎勝男に署名の間違いを指摘した。岡崎が困惑する中、マッカーサー元帥の参謀長リチャード・サザーランド中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが、「不備な文書では枢密院の条約審議を通らない」と重光がこれを拒否したため、岡崎はサザーランド中将に各国代表の署名し直しを求めた。しかし、各国代表はすでに祝賀会の最中だとしてこれを拒否。結局、マッカーサー元帥の代理としてサザーランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正することとなった。日本側代表団はこれを受け入れ、9時30分に退艦した。 さらに翌9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。 これに対して重光外相は、マッカーサー連合国軍最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時にトルーマン大統領の布告の即時取り下げを行い、占領政策は日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本も参照)。 一方、中四国はイギリス連邦占領軍が駐留することに決まり、また沖縄県を含む南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、小笠原諸島は1968年まで、沖縄は1972年の本土復帰までアメリカの被占領の歴史を歩んだ。 なお連合国軍は直ちに日本軍および政府関係者40人の逮捕令状を出し、のちに極東国際軍事裁判などで裁かれた。また中華民国や香港、フィリピン、マレー、シンガポールなどにいた日本軍人はそれぞれの現地で捕虜となり、その後B級並びにC級戦犯として、現地で裁判に掛るものが多かった。 さらにソ連の捕虜になった日本軍将兵は、シベリア抑留などで強制就労にさせられ5万5千人が現地で死亡した。その後帰国してきた軍人も、赤化されているだけでなく瀬島龍三中佐のようにソ連軍のスパイ(スリーパー)として仕込まれているものも多かった。また民間人や軍属なども帰国の途に就いたが、自国領土の台湾や朝鮮、またマレーやインドシナなどからは比較的順調に行ったものの、中華民国や満州国からの帰国はソ連の占領下にあるなど混乱が多く、中国残留孤児など戦後の混乱でやむなく置いておかれるものも多かった。
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