降伏文書調印とは? わかりやすく解説

降伏文書調印

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

第二次世界大戦」の記事における「降伏文書調印」の解説

降伏文書調印式9月2日に、東京湾内の水道中央部千葉県よりの海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上 で、日本全権代表団連合国代表が出席して行われた午前8時56分にミズーリ艦上日本全権代表団到着した日本代表団は、大日本帝国政府全権外務大臣重光葵大本営全権参謀総長梅津美治郎陸軍大将随員終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将軍令部第一部長富岡定俊海軍少将軍令部総長豊田副武海軍大将出席拒否)、大本営陸軍部参謀永井八津次陸軍少将海軍省出仕横山一郎海軍少将大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐大本営陸軍部参謀杉田一次陸軍大佐内閣情報局第三部加瀬俊一終戦連絡中央事務局第三部長太三郎であった先に到着していた連合国側全権代表団は、イギリスオーストラリアニュージーランドカナダ中華民国アメリカフランスオランダなど17カ国の代表団と、さらには8月8日参戦し15日日本軍停戦無視して満洲択捉島などで進軍続けていたソビエト連邦代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。 9時2分に日本全権代表団による対連合国降伏文書への調印が、その後連合国側全権代表団による調印が行われ、9時25分にマッカーサー連合国軍最高司令官による降伏文書調印式終了宣言され、ここに1939年9月1日より足かけ7年わたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。 しかし、そのとき甲板ではカナダ代表署名する間違えたことによる4ヶ国代表の署名にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書訂正なされていた。具体的には、連合国用と日本用の2通の文書のうち、日本文書カナダ代表のエル・コスグレーブ大佐署名する際、自国署名ではなく1段飛ばしたフランス代表団署名した。しかし、次の代表であるフランスフィリップ・ルクレール大将はこれに気づかずオランダ表の欄署名、続くオランダのコンラート・ヘルフリッヒ大将間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥指示従い渋々ニュージーランド代表署名した最後署名となるニュージーランドのレナード・イシット少将アメリカ側指示従い欄外署名することとなり、結果としてカナダ代表空欄となったその後各国代表祝賀会のために船室移動したが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将その場残り日本代表団岡崎勝男署名の間違い指摘した岡崎困惑する中、マッカーサー元帥参謀長リチャード・サザランド中将日本側に降伏文書このまま受け入れるよう説得したが、「不備な文書では枢密院条約審議通らない」と重光がこれを拒否したため、岡崎サザランド中将各国代表署名し直し求めた。しかし、各国代表はすでに祝賀会最中だとしてこれを拒否結局マッカーサー元帥代理としてサザランド中将間違った4カ国の署名訂正することとなった日本代表団はこれを受け入れ、9時30分に退艦した。

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降伏文書調印

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 02:54 UTC 版)

ヨーロッパ戦勝記念日」の記事における「降伏文書調印」の解説

詳細は「ドイツの降伏英語版)」を参照 1945年5月7日午前2時41分、フランス・シャンパーニュ地方ランスにあった連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force, SHAEF) で、フレンスブルク政府カール・デーニッツ元帥から降伏権限受けたドイツ国防軍最高司令部作戦部アルフレート・ヨードル上級大将連合国軍司令長官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥ドイツの降伏文書調印した文書での停戦発効時刻中央ヨーロッパ時間5月8日23時01となっていた。文書にはソ連軍代表のイワン・ススロパロフ(英語版大将証人として署名している。正式な降伏文書調印はここで成立したイギリス当時西ヨーロッパ夏時間とっていたため、停戦時刻5月9日0時01分にあたる。 しかし連合国側は、第一次世界大戦ヴェルサイユ条約ドイツ国民受け入れられず、「背後の一突き伝説生み出してナチ党台頭招いたことを繰り返す可能性感じていた。このため連合国戦場での降伏文書だけでは足らず降伏文書の批准文書が必要であると考えた。この調印を行う人物陸海空軍三軍の最高指揮権を持つ人物ドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥なければならない考えられていた。ソ連側調印式にアイゼンハワー元帥参加要請したが、かわりに副司令官でイギリスのアーサー・テッダー(英語版元帥派遣した5月8日ベルリン市内のカールスホルスト(英語版)におかれた赤軍司令部ドイツ工兵学校兵舎利用した)にカイテル元帥ドイツ代表到着した調印式は同日正午すぎに予定されていたが、夜半までずれ込んだ。これは調印文書ロシア語訳するのに時間かかったという技術的理由あったからという説と、連合軍証人として参加する予定だったフランスジャン・ド・ラトル・ド・タシニー大将が正式代表として調印参加する事を要求したためであったという説がある。後者の説では証人署名を代表のすぐ下にして準代表として形を整える事でド・ラトルも承諾したとされる停戦時刻過ぎた午後11時から、赤軍ゲオルギー・ジューコフ元帥とテッダー元帥、そしてドイツ国防軍ヴィルヘルム・カイテル元帥降伏文書調印した連合軍証人としてはド・ラトル将軍のほか、アメリカカール・スパーツ准将副署している。調印時刻ベルリン時間5月9日午前0時15分だった。 ただしヨーロッパで完全に戦闘終結したのは、プラハの戦い終結した5月11日事だった。

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降伏文書調印

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 04:50 UTC 版)

日本の降伏」の記事における「降伏文書調印」の解説

詳細は「日本の降伏文書」を参照 降伏文書調印式9月2日に、東京湾内の水道中央部千葉県寄り海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上で、日本全権代表団連合国代表が出席して行われた午前8時56分に「ミズーリ艦上日本全権代表団到着した日本代表団は、大日本帝国政府全権外務大臣重光葵大本営全権参謀総長梅津美治郎陸軍大将随員終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将軍令部第一部長富岡定俊海軍少将軍令部総長豊田副武海軍大将出席拒否)、大本営陸軍部参謀永井八津次陸軍少将海軍省出仕横山一郎海軍少将大本営海軍参謀柴勝男海軍大佐大本営陸軍部参謀杉田一次陸軍大佐内閣情報局第三部加瀬俊一終戦連絡中央事務局第三部長太三郎であった先に到着していた連合国側全権代表団は、イギリスオーストラリアニュージーランドカナダ中華民国アメリカフランスオランダなど17カ国の代表団と、さらには8月8日参戦し15日日本軍停戦無視して満洲択捉島などで進軍続けていたソビエト連邦代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。9時2分に日本全権代表団による対連合国降伏文書への調印が、その後連合国側全権代表団による調印が行われ、9時25分にマッカーサー連合国軍最高司令官による降伏文書調印式終了宣言され、ここに1939年9月1日から足かけ7年わたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。 しかし、そのとき甲板ではカナダ代表署名する間違えたことによる4ヶ国代表の署名にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書訂正なされていた。具体的には、連合国用と日本用の2通の文書のうち、日本文書カナダ代表のエル・コスグレーブ大佐署名する際、自国署名ではなく1段飛ばしたフランス代表団署名した。しかし、次の代表であるフランスフィリップ・ルクレール大将はこれに気づかずオランダ表の欄署名、続くオランダのコンラート・ヘルフリッヒ大将間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥指示従い渋々ニュージーランド代表署名した最後署名となるニュージーランドのレナード・イシット少将アメリカ側指示従い欄外署名することとなり、結果的にカナダ代表空欄となったその後各国代表祝賀会為に船室移動したが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将その場残り日本代表団岡崎勝男署名の間違い指摘した岡崎困惑する中、マッカーサー元帥参謀長リチャード・サザーランド中将日本側に降伏文書このまま受け入れるよう説得したが、「不備な文書では枢密院条約審議通らない」と重光がこれを拒否したため、岡崎サザーランド中将各国代表署名し直し求めた。しかし、各国代表はすでに祝賀会最中だとしてこれを拒否結局マッカーサー元帥代理としてサザーランド中将間違った4カ国の署名訂正することとなった日本代表団はこれを受け入れ、9時30分に退艦した。 さらに翌9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部トルーマン大統領布告を受け、「占領下においても日本主権認める」としたポツダム宣言反故にし、「行政・司法立法三権奪い軍政を敷く」という布告下し、さらに「公用語も英語にする」とした。 これに対して重光外相は、マッカーサー連合国軍最高司令官に「占領軍による軍政日本主権認めたポツダム宣言逸脱する」、「ドイツ日本は違う。ドイツ政府壊滅した日本には政府存在する」と猛烈に抗議し布告即時取り下げ強く要求したその結果連合国軍側即時トルーマン大統領布告即時取り下げ行い占領政策日本政府通した間接統治となった連合国軍占領下の日本参照)。 一方中四国イギリス連邦占領軍駐留することに決まり、また沖縄県を含む南西諸島および小笠原諸島停戦時にすでにアメリカ軍占領下ないし勢力下にあり、小笠原諸島1968年まで、沖縄1972年本土復帰までアメリカの被占領歴史歩んだ。 なお連合国軍直ち日本軍および政府関係者40人の逮捕令状出し、のちに極東国際軍事裁判などで裁かれた。また中華民国香港フィリピンマレーシンガポールなどにいた日本軍人はそれぞれの現地捕虜となり、その後B級並びにC級戦犯として、現地裁判掛るものが多かった。 さらにソ連捕虜になった日本軍将兵は、シベリア抑留などで強制就労させられ5万5千人現地死亡したその後帰国してきた軍人も、赤化されているだけでなく瀬島龍三中佐のようにソ連軍スパイスリーパー)として仕込まれているものも多かった。また民間人軍属なども帰国途に就いたが、自国領土台湾朝鮮、またマレーインドシナなどからは比較順調に行ったものの、中華民国満州国からの帰国ソ連占領下にあるなど混乱多く中国残留孤児など戦後の混乱やむなく置いておかれるものも多かった

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