降伏要求と加速する包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 01:31 UTC 版)
「コルスン包囲戦」の記事における「降伏要求と加速する包囲戦」の解説
2月11日、第III装甲軍団は東への進撃を続け、消耗しきってはいたが、Gniloy Tikich川東岸に小さな橋頭堡の確保に成功した。しかし、第III装甲軍団は力尽き、それ以上進むことは不可能だった。シュテンマーマン集団は包囲からの出口を確保するために戦い続けねばならなかった。 包囲するソビエト赤軍、包囲されたドイツ軍部隊ともに救出作戦は限界に達したと判断したが、包囲内のドイツ軍部隊は盛んなソビエト赤軍の降伏宣伝にもかかわらず、武装親衛隊以外のごく少数の将兵が降伏したのみであった。そこでジューコフは降伏要求を行うために白旗を掲げた特使を送ることを決定した。特使である赤軍大佐、通訳、らっぱ手を乗せたアメリカ製のジープはドイツ軍の元に到着、ジューコフ、コーネフ、ヴァトゥーチンらの署名の入ったドイツ軍のシュテンマーマン、リープ宛の降伏文書を手渡した 。ドイツ軍司令部の任務についていた将校、B軍団支隊の少佐と翻訳役らは特使を迎え入れた。腹を割った会談、軽い食事、握手の後、ソビエト側特使は答えを得られないまま、出発した。 「答えは継続的な苦々しいまでの抵抗の形で現れるでしょう」 一年前のスターリングラード攻防戦ではドイツ空軍の包囲内への補給活動は失敗に終わったが、今回はユンカースJu52輸送機のパイロット及び地上要員による「本当に成功した」活動であった。総計で医薬品4トン、弾薬868トン、燃料82,948ガロンが空輸された。また東部戦線地域におけるドイツ軍将兵の士気を考慮し、4,161名の負傷者が後方へ送られた。2月12日、コルスン飛行場が放棄された後は、燃料はドラム缶、弾薬は木の箱に入れられて、輸送機によって雪の吹き溜まりの上にパラシュート投下された。 シュテンマーマンは包囲内北方の部隊を撤退させ、脱出のために再編成を行い、Gniloy Tikich川北岸で救援に北部隊の方へ包囲を突破するために南側で攻撃を開始した。包囲内からの激しい攻撃は、ドイツ第8軍の大部分を包囲したと信じていたソビエト赤軍を混乱させた。包囲された部隊は脱走の容易な方向に達するため、包囲内南西部のNovo-Buda、Komarovka、Khilki、ジャンデロフカの村を占領することになっていた。 2月11日、第72歩兵師団所属の第105擲弾兵連隊(連隊長ロベルト・ケストナー(Robert Kästner)は夜間の攻撃でNovo-Budaを確保した。翌日の夜、Komarovkaも同様に陥落した。2月15日夕方、2両の突撃砲と共に第105擲弾兵連隊は最後の予備戦力を用いて装甲部隊の支援を受けたソビエト赤軍の反撃を撃破、Khilkiを確保した。中でも第5SS装甲師団は「シュテンマーマン集団の継続的な生き残るための戦いの中で他の部隊よりも激しく戦った」。第5SS装甲師団は包囲内唯一の機動部隊であったため、師団の無限軌道車両を備えた部隊は、崩壊する防衛線を支えるために包囲が一つ終了するたびに新たな包囲へ繰り返し移動して攻撃を行った。 包囲内の部隊は南へ「彷徨い」、そして救助部隊との合流地点まで半分の距離をいったところにあったシャンデロフカの村に到着した。この村落はソビエト赤軍によって堅く防衛されていたが、ドイツ第72歩兵連隊によって一度確保、その後、ソビエト第27軍所属部隊によって取り戻されたが、再び第5SS装甲師団のゲルマニア連隊が取り戻した。2月16日夕方までに第III装甲軍団は救出のために攻撃を開始、先遣隊はシュテンマーマン集団から7km地点に達していた。
※この「降伏要求と加速する包囲戦」の解説は、「コルスン包囲戦」の解説の一部です。
「降伏要求と加速する包囲戦」を含む「コルスン包囲戦」の記事については、「コルスン包囲戦」の概要を参照ください。
- 降伏要求と加速する包囲戦のページへのリンク