降嫁後
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池田隆政と厚子夫妻は、1953年(昭和28年)2月に有限会社池田産業を設立。1960年(昭和35年)5月には株式会社池田動物園となり、隆政は園長に就任している。 1964年(昭和39年)4月29日には勲一等宝冠章受章。日本赤十字社岡山県支部有功会名誉会長などを務める。 1965年(昭和40年)頃、敗血症を患い、岡山大学医学部附属病院に長期入院。すでに長姉の東久邇成子が癌で死去しており、身を案じた天皇・皇后は頻繁に岡山県へ見舞いのため行幸啓した。回復後は天皇・皇后の他、実弟である皇太子明仁親王・同妃美智子ら皇族が岡山県を訪問した際に、厚子が案内役を務めることもあった。 姉の鷹司和子の退任を受け、1988年(昭和63年)より伊勢神宮祭主を務める。2012年(平成24年)4月26日、補佐役に姪の黒田清子が臨時祭主に就任した。同年7月、隆政と死別。 2017年(平成29年)6月19日付で、伊勢神宮祭主を退任し、神宮祭主には黒田清子が就任したことが公表された。
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降嫁後
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1964年(昭和39年)4月29日、生存者叙勲再開により勲一等宝冠章受章。同時期に夫 久永の米国赴任に同行した。5月1日に、夫妻がワシントンへ向かう際には、次兄の義宮正仁親王、叔父の三笠宮崇仁親王、次姉の鷹司孝子・平通夫妻、長姉の夫で元皇族の東久邇盛厚、伏見博明、姉の夫池田隆政、宮内庁長官の宇佐美毅、そして久永の母を含む、親族・友人約100人による盛大な見送りがあった。 結婚後も、派手な言動に関し、批判を受けることもあった。例えば、1968年(昭和43年)に、知己であるヴァンヂャケット副社長石津裕介主催の「パジャマパーティ」に参加した際は、週刊誌等で酷評された。またインテリアコーディネーターの資格を取り、1970年(昭和45年)、東京プリンスホテル内のショッピングモール「ピサ」に就職した際には、宮内庁宮務課は「私企業だと好ましくない」と表明。貴子はこうした賛否あることを踏まえつつ、勤務に意欲を示した。 1970年(昭和45年)に開催された大阪万博では、開会式・閉会式のテレビ番組で司会を務めるなど、タレントとしても活動した。このことについて感想を問われた父天皇は、国民と皇室の距離が近づくことを好意的に捉えつつも、細部の感想については「研究しなければならない」と言葉を濁している。 1975年(昭和50年)11月、夫 久永のシドニー駐在に同行し、渡豪。二度目の海外居住となった。 2005年(平成17年)11月15日に姪の紀宮清子内親王(皇籍離脱後:黒田清子)の結婚の際、直近の内親王の“降嫁”の例として、また皇室出身らしからぬトークの歯切れのよさから複数のメディアに出演した。 2019年(令和元年)5月1日時点で、健在の昭和天皇の皇女(内親王)は姉の池田厚子と貴子のみである。民間企業(名誉職とは言えプリンスホテルの取締役)で勤務する島津貴子は「異色の皇女」と呼ばれる。
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降嫁後
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1908年(明治41年)12月に久能山東照宮での御廟臨時祭に参列した後、修善寺に立ち寄って新婚旅行を過ごした。実枝子の容貌は良く、慶久の友人・杉村陽太郎は「慶久のやつ、うまくやったな」と言ったとされる。 慶久との間に、慶子(夭折)、喜久子、慶光を生む。 1913年(大正2年)7月5日に、父・威仁親王が薨去。大正天皇の第三皇子・光宮宣仁親王が、実枝子の次女・喜久子(1911年〈明治44年〉生)との結婚も定められ、有栖川宮家の祭祀を継承することになった。 貞明皇后とは旧知の間柄であり、度々御所に呼ばれては話相手やお稽古の相手を務めたという。 1930年(昭和5年)2月4日、喜久子が高松宮宣仁親王と婚姻する。 1933年(昭和8年)、結腸癌を患い東京帝国大学医学部附属医院に入院する。佐世保からの帰途にあった喜久子妃にも電報で知らされた。実枝子は食事を摂取できず、吐血している状態だったが、急行した喜久子妃に「貴女は宮家へ嫁がれた方」とすぐに帰るよう促した。すでに末期の状態で開腹手術も受けたが、実枝子自身は回復すると信じており、喜久子は真実を告げたり遺言を聞きだすことができなかった。 同年4月25日に逝去した。喜久子は臨終に立ち会った外科の塩田広重博士や、内科の稲田龍吉博士に礼を述べた。当時数え年23歳だった喜久子は実枝子の死の経験から、後年高松宮妃癌研究基金を創設した。なお、宣仁親王と喜久子夫妻に子は無く、有栖川宮家の祭祀も絶えたが、有栖川流書道は常陸宮妃華子や秋篠宮文仁親王に伝授されている。
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