皇籍離脱後
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1947年(昭和22年)、他の宮家とともに皇籍を離脱して山階武彦となり、公職追放となる。追放は、1951年(昭和26年)に解除された。 その後も入退院を繰り返し、晩年は東京都世田谷区奥沢に移住した。1983年(昭和58年)8月17日、山階野生鳥獣保護研究振興財団を設立した。 1987年(昭和62年)8月10日、老衰のため神奈川県藤沢市の医療法人社団清心会藤沢病院で逝去。喪主は弟の山階芳麿が努めた。
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皇籍離脱後
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1945年(昭和20年)11月11日、東久邇宮稔彦王は敗戦の責任を取るため、皇族の身分を離れる意向であることを表明した。賀陽宮恒憲王もこれに同調し、また、当時朝日新聞は皇族の範囲を狭めることによって『累の上御一人に及ぶことを全力を挙げて未然に避けん』とする等、世論も歓迎する方向であったが、春仁王が「皇族の使命を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるもの」と発言する等、このような動きに反発する皇族も多く、時の宮内大臣石渡荘太郎も臣籍降下の勅許は得られないであろうとの見解を示した。 この問題は宮相発言によりいったん決着を見たかのようであったが、翌月には梨本宮守正王が戦犯に指名される等、天皇・皇族も戦争責任も免れないことが明示された。さらに、1946年(昭和21年)5月23日、GHQより『皇族の財産上その他の特権廃止に関する指令』が発せられ、財政上、従前の規模の皇室を維持することは困難となった。日本国憲法施行後から5か月後、皇室会議の議を経て、正式に11宮家51名の臣籍降下が決定された。 1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱、閑院春仁と名乗り、公職追放となる。永田町の本邸跡地を売却した後、東京を離れ、かつての小田原別邸に移住する。1951年(昭和26年)に妹・華子と華頂博信伯爵の離婚騒動が起こり、春仁が手記を発表。1957年(昭和32年)には妻の直子が家出し告白手記を発表して、夫は同性愛者(男色家)であったと語り、スキャンダルに見舞われた。上級将校には世話係として従兵がつくが、官舎はせまく寝室は一部屋だったため直子の隣のベッドで春仁はその従兵と同衾し、戦後も三人で生活を送り、夫妻が喧嘩になるとその元従兵が直子を殴ったという。1958年(昭和33年)7月31日に春仁は閑院純仁(かんいん すみひと)に改名し、離婚裁判のうえ、夫婦は1966年に協議離婚する。 その後、春日興業を設立して社長に就任し、1963年には東海道本線田町駅前に春日ビル(現NEC春日ビル)を建設するなど、旧皇族の中では比較的経済的に成功したひとりであったが、1969年には「飼い犬に手を咬まれた結果」急に経営が行き詰まったといわれる。箱根の別邸を使ったホテル業にも手を出したが、これも失敗し、別邸は人手に渡った(現・強羅花壇)。住居としていた小田原城山の敷地も小田原競輪場や小田原女子短期大学に切り売りした。晩年はヨガに傾倒して日本ヨガ協会理事長などを務め、また地方の農業の改革を訴える活動を行っていた農民運動家に協力するなどしていたが、概ね静かな余生を送った。1988年(昭和63年)6月18日、直腸癌のため小田原市立病院で逝去。これにより、宝永7年(1710年)以来278年続いた閑院宮家は絶家となった。
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皇籍離脱後
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皇籍離脱後は終戦後のインフレーション等の厳しい社会情勢の中、皇族としての身分も経済的特権も失い、厳しい家計を内職をしながら助けたり、都内遠方でも商店街の特売に人目を忍んで並んだりと、元皇女とはいえ一般家庭の主婦並の苦労も多かった。特に、ヌートリアの養殖を独学で成功させたという逸話もある。 1949年(昭和24年)夏、創刊間もない雑誌『美しい暮しの手帖』第5号に大橋鎭子からの強い依頼を受けて「やりくりの記」を寄稿する。物資不足に悩みながらも「やりくり暮しのこの苦労のかげに、はじめて人間らしいしみじみとした、喜びを味う事が出来る」とした成子の手記は大きな反響を呼び、『暮らしの手帖』の部数拡大のきっかけとなった。 1958年(昭和33年)1月2日、NHKのテレビ番組『私の秘密』に生出演。宮中でのカルタ会を中座しての出演であり、皇族たちもカルタそっちのけでTVに見入ったという。 1959年(昭和34年)4月、実弟である皇太子明仁親王と正田美智子の結婚に際しては、二人を祝福するとともに「新しい仕事」を応援するメッセージを新聞に寄稿している。成子自身も、同年6月3日に昭和天皇、香淳皇后、皇太子夫妻をはじめ両親と弟妹らを自宅へ招待してホームパーティーを開き、「家庭的な皇室のあり方」を実践して見せた。 この他、盛厚が携わった団体の公私にわたる活動に成子も関わり、また子女教育にも熱心であった。
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