皇籍離脱後とは? わかりやすく解説

皇籍離脱後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:17 UTC 版)

山階宮武彦王」の記事における「皇籍離脱後」の解説

1947年昭和22年)、他の宮家とともに皇籍離脱して山階武彦となり、公職追放となる。追放は、1951年昭和26年)に解除された。 その後入退院を繰り返し晩年東京都世田谷区奥沢移住した1983年昭和58年8月17日山階野生鳥獣保護研究振興財団設立した1987年昭和62年8月10日老衰のため神奈川県藤沢市医療法人社団清心会藤沢病院逝去喪主は弟の山階芳麿努めた

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皇籍離脱後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 23:46 UTC 版)

閑院宮春仁王」の記事における「皇籍離脱後」の解説

1945年昭和20年11月11日東久邇宮稔彦王敗戦責任を取るため、皇族身分離れる意向であることを表明した賀陽宮恒憲王もこれに同調しまた、当時朝日新聞皇族範囲狭めることによって『累の上御一人に及ぶことを全力挙げて未然避けん』とする等、世論歓迎する方向であったが、春仁王が「皇族使命軽んじ自ら卑下して時勢おもねるもの」と発言する等、このような動き反発する皇族多く時の宮内大臣石渡荘太郎臣籍降下勅許得られないであろうとの見解示した。 この問題宮相発言によりいったん決着見たかのようであったが、翌月には梨本宮守正王戦犯に指名される等、天皇皇族戦争責任免れないことが明示された。さらに、1946年昭和21年5月23日GHQより『皇族財産その他の特権廃止に関する指令』が発せられ、財政上、従前規模皇室維持することは困難となった日本国憲法施行後から5か月後、皇室会議の議を経て正式に11宮家51名の臣籍降下決定された。 1947年昭和22年10月14日皇籍離脱閑院春仁名乗り公職追放となる。永田町本邸跡地売却した後、東京離れ、かつての小田原別邸移住する1951年昭和26年)に妹・華子華頂博信伯爵離婚騒動起こり、春仁が手記発表1957年昭和32年)には妻の直子家出し告白手記発表して、夫は同性愛者男色家)であった語りスキャンダル見舞われた。上級将校には世話係として従兵がつくが、官舎はせまく寝室一部屋だったため直子の隣のベッドで春仁はその従兵同衾し、戦後三人で生活を送り夫妻喧嘩になるとその元従兵直子殴ったという。1958年昭和33年7月31日に春仁は閑院純仁かんいん すみひと)に改名し離婚裁判のうえ、夫婦1966年協議離婚する。 その後春日興業設立して社長に就任し1963年には東海道本線田町駅前に春日ビル(現NEC春日ビル)を建設するなど、旧皇族の中では比較経済的に成功したひとりであったが、1969年には「飼い犬に手を咬まれ結果急に経営が行詰まったといわれる箱根別邸使ったホテル業にも手を出したが、これも失敗し別邸人手渡った(現・強羅花壇)。住居としていた小田原城山の敷地小田原競輪場小田原女子短期大学切り売りした晩年ヨガ傾倒して日本ヨガ協会理事長などを務め、また地方農業改革訴え活動行っていた農民運動家に協力するなどしていたが、概ね静かな余生送った1988年昭和63年6月18日直腸癌のため小田原市立病院逝去。これにより、宝永7年1710年以来278年続いた閑院宮家絶家となった

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皇籍離脱後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:21 UTC 版)

東久邇成子」の記事における「皇籍離脱後」の解説

皇籍離脱後は終戦後インフレーション等の厳し社会情勢の中、皇族として身分経済的特権失い厳し家計内職しながら助けたり都内遠方でも商店街特売人目を忍んで並んだりと、元皇女とはいえ一般家庭主婦並の苦労多かった。特に、ヌートリア養殖独学成功させたという逸話もある。 1949年昭和24年)夏、創刊間もない雑誌美し暮しの手帖第5号大橋鎭子からの強い依頼受けてやりくりの記」を寄稿する物資不足に悩みながらも「やりくり暮しのこの苦労のかげに、はじめて人間らしいしみじみとした、喜びを味う事が出来る」とした成子の手記は大きな反響呼び、『暮らしの手帖』の部数拡大きっかけとなった1958年昭和33年1月2日NHKテレビ番組私の秘密』に生出演宮中でのカルタ会中座して出演であり、皇族たちもカルタそっちのけでTV見入ったという。 1959年昭和34年4月実弟である皇太子明仁親王正田美智子結婚に際しては、二人祝福するとともに新し仕事」を応援するメッセージ新聞寄稿している。成子自身も、同年6月3日昭和天皇香淳皇后皇太子夫妻をはじめ両親弟妹らを自宅招待してホームパーティー開き、「家庭的な皇室あり方」を実践して見せたこの他、盛厚が携わった団体公私にわたる活動成子関わり、また子女教育にも熱心であった

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