子女教育
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:09 UTC 版)
「フィリップ (エディンバラ公)」の記事における「子女教育」の解説
『王配』の称号を得られなかったことはフィリップに屈折した心理を生み、放蕩や不倫の「噂」が報じられたほか、王子や王女たちにも悪影響を及ぼしたと考えられている。女王も夫の不満を知り、ウィンザー・パークの経営、そして子女教育を夫に任せた。 フィリップは4人の子供達(3男1女)には、自身の育った経験から父親として厳格な躾を施し、とりわけ長男のチャールズ王太子には将来の国王となるべく関与し、不幸な影響を与えた。フィリップは内気なチャールズ王太子より、活発で自身に似た性格のアン王女を可愛がった。 エリザベス2世もフィリップも、子供たちに「フォーマルに」接した。代わって乳母や家庭教師たちが、チャールズに愛情や優しさを教えたが、時にフィリップと意見が対立した。特に、乳母の最年長者であるライトボディは、チャールズを朝起こし、夜寝かしつけるまで王子に尽くした。フィリップは息子を戸外で遊ばせるよう命じ、幼児に恐怖心を与えるやり方で無理強いすることもあったが、ライトボディは王子の性格や体調を理解し、こうした教育方針に強く抵抗した。チャールズが8歳の時、ライトボディはフィリップとの対立から、宮廷を去った。 女王はチャールズを宮廷で養育しようと考えたが、フィリップは自身の経験から一般の学校に通わせるべきだと主張した。フィリップの意見通り、慣例を破って学校に通わせることとなり、またチャールズも学校に良く馴染んだ。ところが、王太子が通学する姿がマスコミの標的になり、王室側も王太子の安全面を懸念するようになった。ここで、フィリップが全寮制の学校に通わせるべきだと決断し、わずか5か月で通学生活を終わらせることとなった。 フィリップは自身の母校であるチーム校へチャールズを入学させたが、チャールズは団体競技や団体生活に馴染むことができなかった。さらに次の進学先も、エリザベス王太后が希望する貴族的なイートン校ではなく、フィリップの母校であるゴードンストウン校が選ばれた。フィリップは表向きの理由をマスコミ対策としたが、チャールズの性格を「矯正」するのには母校ゴードンストウンが最適であると判断したと考えられている。チャールズは、同校の厳しい校風や、生徒たちからの嫌がらせといった苦難を味わうこととなった。 チャールズは17歳の時、将来の国王としてオーストラリアに留学した。この時の留学先はハーンの愛弟子が校長を務めたことがある学校であり、フィリップも同意した。ここはチャールズにとって、自分に自信を持てる、良い経験となった。しかし、ゴードンストウン校卒業後の進路を巡る会議で、フィリップはやはり母校であるダートマス海軍兵学校を推したが、決め手はルイス・マウントバッテン卿の「祖父ジョージ6世のようにケンブリッジ大学(トリニティ・カレッジ)に進学した後、父や祖父と同じくダートマスへ行き、海軍へ入り自分で艦船の指揮をする」という意見であった。 チャールズのケンブリッジ大学在学中の1969年7月、カーナーヴォン城でプリンス・オブ・ウェールズの叙任式(立太子に相当)が執り行われた。大学卒業後は、空軍の訓練を経て、フィリップの希望通り、海軍に入隊した。
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