子嬰との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 23:46 UTC 版)
小説などでは秦の最後の君主である子嬰は扶蘇の子であるといわれることがあるが、『史記』などの史書に裏付けがある話ではない。扶蘇と子嬰の父子関係を肯定するならば、趙高の誅殺に加わった子嬰の二人の子は扶蘇の孫、始皇帝の曾孫となる。『史記』「李斯列伝」では始皇帝の弟とされ、『史記』「秦始皇本紀」では「胡亥の兄の子」とされており、「兄」が誰の事なのかは記録されていない。また、『史記』「六国年表第三」では、「趙高反,二世自殺,高立二世兄子嬰」と記述され、「胡亥の兄」とされている。 中井積徳は、子嬰が始皇帝の孫なら「公孫」と称し、公子と称すことができないことから、「兄子」の「子」の字を伝写するものが誤って増やしたのではと考え、さらに、子嬰の子供たちと趙高の謀殺を共謀することは年齢的に無理があることから、子嬰を「蓋し(思うに)二世(胡亥)の兄なり」として、扶蘇と胡亥の間の始皇帝の公子の一人、扶蘇の弟、胡亥の兄とみなしている。 『史記』「李斯列伝」集解徐広の説では、「一本曰『召始皇弟子嬰,授之璽』」と記述され、始皇帝の弟の子の(嬴)嬰とする説がある。就実大学人文科学部元教授の李開元はこの説を支持し、嬴嬰を扶蘇ではなく始皇帝の弟である嬴成蟜の子であると言う説を発表している。また、この中で李開元は成蟜が趙攻めの際に秦に叛いた際(成蟜の乱)、趙で生まれたのが子嬰であると言う。 ただし、新釈漢文大系「史記一(本紀)」の注釈においては、子嬰(公子嬰)を「二世胡亥の兄扶蘇の子」としている。
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