子孫である可能性がある人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 13:55 UTC 版)
「アンドレアス・パレオロゴス」の記事における「子孫である可能性がある人物」の解説
一般には、アンドレアスは子孫を残さず死去したとされている。一方でドナルド・ニコルの著書The Immortal Emperor (1992)によれば、1508年に教皇の衛兵として雇われたコンスタンティノス・パレオロゴスという人物がアンドレアスの息子である可能性がある。彼はアンドレアスの亡くなった6年後の1508年に死去している。 ロシアの文献によると、ロシア貴族ヴァシーリー・ミハイロヴィチと結婚したマリア・パレオロギナという女性は、アンドレアスの妹ソフィヤの「姪」であるという。ヴァシーリー・ミハイロヴィチは、ベロオーゼロ公ミハイル・アンドレーヴィチ・モジャイスキーの世継息子、モスクワ大公ドミートリー・ドンスコイの孫であり、現モスクワ大公イヴァン3世の従弟にあたった。1483年、ソフィヤはイヴァン3世の最初の妻マリヤ・ボリソヴナ(当時の大公位継承者イヴァン・マラドイの母)の持参金であったネックレスを姪のマリヤに贈った。しかしイヴァン3世は同じネックレスをイヴァン・マラドイの妻エレナ・ステパノヴナに贈ろうとしていたため、マリヤとヴァシーリーの夫妻はイヴァン3世の勘気を被ってリトアニアに亡命し、ベロオーゼロ公位の継承権を失った。1493年にゾイの説得によりようやく2人は許されたが、既にベロオーゼロ公国は1486年にミハイルが死んだことでモスクワ大公国に併合されていた。 1499年7月17日、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァが、彼が「モレアス専制公の子、コンスタンティノス卿の甥であるドン・フェルナンドを、5頭の馬と共にトルコへ派遣した。」と書き記している。おそらくは外交もしくは偵察の任を負っていたこのドン・フェルナンドも、アンドレアスの息子である可能性がある。彼もアンドレアス死後にモレアス専制公を名乗ったが、あまり歴史に大きな影響を及ぼさなかった。彼自身重要な役割を担う気がなかったのか、あるいは非嫡出児で活躍の場が狭められていた可能性も考えられる。ルドヴィーコ・スフォルツァの言う「コンスタンティノス卿」とはコンスタンティノス・コムネノス・アリアニテスのことで、彼もアンドレアスと血縁がないにもかかわらずアンドレアス死から数か月後以降にモレアス専制公の継承を主張した。 17世紀のコーンウォールで活動したテオドロス・パレオロゴスはソマス・パレオロゴスの孫であると自称していた。父は「ジョン」(ヨハネス)という名であったというが立証されておらず、実際にはアンドレアスの子であるという可能性もあるが、テオドロスの系譜は極めて不明瞭である。
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