ヴィッラノーヴァ時代とは? わかりやすく解説

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ヴィッラノーヴァ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 05:37 UTC 版)

エトルリア」の記事における「ヴィッラノーヴァ時代」の解説

「ヴィッラノヴィアーノ」という名は、1850年に、考古学愛好家であるジョヴァンニ・ゴッツァディーニ伯爵が、非常に変わった特徴をもつ共同墓地発見したボローニャ郊外小さな町ヴィッラノーヴァ現在のカステナーゾの一地区)に由来する埋葬の特徴というのは、円錐2つ合わせた形の骨壺死者遺品納める)で、形のをもち、大きな石のプレート囲まれ空間置かれていた。 研究者たちは、この文化の“準備期間”にあたるものが青銅器時代末期紀元前12 - 10世紀)のマントヴァウンブリアトスカーナカンパーニアシチリアリーパリ島見られるとしている。ここにはすでに、のちのヴィッラノーヴァ文化英語版)で導入されるすべての要素前触れがある。それらは南イタリア国々では、早く現れギリシア植民都市建設紀元前8世紀)の影響のために、それ以上発展することはなかった。頻繁に見られる要素1つとして、遺灰火葬)を納めるための骨壺がある。多くタイプがあり、精密な装飾施されたものも多い。直線分割刻印幾何学的模様によって芸術的効果加えられたが、使われ粘土は粗いものだった兵士埋葬場合は、円錐2つ合わせた形の骨壺銅製の兜でがされた。この習慣伝わったラツィオでは、遺灰両円錐型の壷ではなく羊飼い小屋の形をした壷に納めることがあった。 イタリア半島では地方文化生まれ発展し、それはしばしばその土地自然と結びついていた。マルケ北部アブルッツォラツィオ北部、イルピニア、サンニオ、カラブリアでは遊牧生活続けられ一方トスカーナトスカーナ列島には、地中海東部から求め航海者たちがやってきた。当時貴重な金属の1つだった。青銅使用続いたが、それまでのように一般用ではなく小さな装飾品奉納用の小像、宗教用具使われた。地方ごとの違い大きかったが、この時代には公共生活と、そして何らかの形でのイタリア各地集落間の連携必要性感じられ共同墓地をもつ、初期都市型集落形成され始めた共同墓地は、実際に古代定住があったことを証明している。海の近く海岸から数キロメートルところに集落形成する一般傾向反して隔離された、住むのに適さない変わった内陸環境に居を定めているように見て取れる唯一のエトルリア海洋都市は、おそらくポプロニア(英語版)であり、ほかは後背地位置とっているが、これは海賊来襲恐れたためである。すなわち、クレタ人ミケーネ人に代わって、何者かが求めてこの資源豊かなエトルリア土地イタリア沿岸訪れていたことがわかる。 とにかく、ポプロニアのように海に面した、それもエルバ島正面という場所柄には理由がある。ここはおそらく、ヴィッラノーヴァ期の銀製品の主要積出港であり、後にエトルリア期に入って、“の港”となったのである研究者たちが偽アリストテレスと呼ぶ古代無名著作家は、ポプロニアでは産出した記しており、実際にくずや、加工工場の跡が見られる。のちにポプロニアは、エルバ島産の加工で非常に重要なとなった。 港の内部現在のバラッティ湾には2つ集落と、サン・チェルボーネとポッジョ・デッレ・グラナテという2つ異なネクロポリスがある。そこには火葬井戸型墓と、その後時代方形墓がある。これらの墳墓と、石室墳墓で、副葬品は同じである。 ヴィッラノーヴァ人は、鉱物建築資材掘り出すために多く時間費やしたことがわかる。トスカーナラツィオ採掘跡が見つかっている。鉱物を含む丘とその一帯では、、銀を含む鉛、錫石が、チェチナ渓谷では、鉛、銀、アミアータ山(英語版)では水銀をふくむ岩があり、トルファ山地英語版)では鉄鉱石、鉛、亜鉛水銀エルバ島ではラツィオ北部では火山性凝灰岩砂岩石灰岩が、北部エトルリアではトラバーチンアラバスター産出した最近の研究では、最も古いエトルリアヴィッラノーヴァ人は、3つの大きな定住地集中していたとされる1つ目はチヴィタヴェッキアブラッチャーノ湖(英語版)の間のトルファ山地を含む地域2つ目はヴルチの考古学ゾーンボルセーナ湖の東、ラモネのの間のフィオーラ川(英語版渓谷中腹3つ目はラディコーファニキウージチッタ・デッラ・ピエーヴェの間のチェトーナ周辺丘陵地帯である。 おそらく3つの定住地は、自給自足独立した経済と、港から積み出す鉱物加工採掘をもとに関係を持っていた。その他の重要な活動としては農業があった。 ヴィッラノーヴァ人は、その最盛期にはエミリア=ロマーニャから南イタリアにも及ぶ非常に広範な地域広がっていた。青銅器時代末期とおして南下続け中央イタリア背骨山岳地帯集中したアペニン山脈文化圏民族直系の子孫である可能性がある。牧羊生業とする人々で、このためのちのエトルリア人につながるヴィッラノーヴァ人は、大地動物への愛着を持つようになったこのように、独自の性格持ち地域固有伝統と結びついて発展した古代イタリア各地文明解されているが、少し時代が下がると、海上交易と金加工で、とりわけ東方との貿易物流の扉を開くことになる。

※この「ヴィッラノーヴァ時代」の解説は、「エトルリア」の解説の一部です。
「ヴィッラノーヴァ時代」を含む「エトルリア」の記事については、「エトルリア」の概要を参照ください。

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