子孫と墓所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 06:58 UTC 版)
子の民部と久米之助は、引き続き松平綱近に預けられた。元禄15年(1702年)赦免され、母のいる武蔵国橘樹郡大師河原(現:川崎市川崎区大師河原)に引っ越した。民部は名主の池上家の食客となり、次いで遠藤野(現:川崎市川崎区観音)で農民となった。弟の久米之助は、隣村の大島村(現:川崎市川崎区浜町2丁目)に移住し、湿地を開拓した。久米之助の子孫は、後に苗字を杉本と改めた。いずれの家系も子孫は現存している。 本繁と大蔵は八丈島に葬られたが、明和年間(1764年 - 1772年)には既に墓所は不明となっていた。明和8年(1771年)、流人として八丈島にやって来た青山喜平次はこれを他人事ではないと思い、24年間捜索した結果、島内の粥倉にあることを突き止めた。そこで喜平次は、墓所の隣地を買い求めて、本繁らのみならず、死亡した流人を残らず改葬した。そして喜平次は出家してみずから供養した。なお、本繁の遺骨は家来がひそかに持ち出し、菩提寺である越後小見の龍光寺に葬られたが、幕府に遠慮して墓は作られなかったともいう。 その後、八丈島の墓所は長楽寺が管理したが、再び墓の行方はわからなくなった。平成21年(2009年)11月6日、本繁の子孫である荻田昌昭、荻田昇、青山剛征が地元住民の協力を得て、笹藪の中にある墓石を再発見した。2010年3月2日、3名によって永見大蔵と荻田主馬の墓であることを示す看板が設置された。
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