子孫に関する伝承とは? わかりやすく解説

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子孫に関する伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 02:23 UTC 版)

藤原忠衡」の記事における「子孫に関する伝承」の解説

岩手県姓氏歴史人物大辞典』には、「奥州藤原氏系の中野氏は、祖先藤原秀衡三男藤原忠衡の子孫が北海道居住と書かれている。つまり姓氏に関する限り、忠衡に近い血脈人物蝦夷逃れた事になる。 忠衡生存伝説があり、義経主従と共に文治4年春、平泉出立した一行中に忠衡と3人の息子含まれていたという。寛永4年1627年)、三戸南部氏の利直(南部利直遠野郷に八戸南部氏移封したとき、(以後遠野南部氏と呼ぶ)遠野南部氏家臣武藤氏という者姓のいたそうといい、武藤家に伝わる言い伝えが『遠野風土』に記載されており、それによると、この武藤家の先祖奥州平泉藤原秀衡三男忠衡の息子三男)・助衡としている。助衡はその後関東出て武蔵野国に居を構え源実頼に仕え、姓を武蔵に住む藤原氏ゆえに「武藤」と称した伝えられている。その子孫甲斐源氏武田氏仕えたこともあったようだが、同じ源氏甲斐南部氏八戸根城本拠とし下向し、八戸南部氏称するや、その家臣新田氏仕え一緒に下向したという。 他にも忠衡生存伝説があり、やはり3人の息子一緒だったことは共通している。ただ三男(名前は不明)は、北行途中下閉伊郡川井村落人の里に江撃という集落があり、そこに四十七代家系を誇る「泉沢家」という旧家があり、ここに幼い三男残し上館”に住まわせたと伝えられており、近年までそれを示す家伝書が遺っていたそうである(現在は不明)。この説では、二男長男登場して二男下閉伊郡野田村置いて泉田」を称したが、のちに母方の姓を名乗って中野」を称している。この野田村残った二男中野家には「義経直筆般若経」や「弁慶直筆の書」などと共に先祖由来」と題した古文書まで遺されているという。 この古文書には、古い形式漢文で、それには、 「我が大祖は・・略・・泉三郎忠衡也。・・略・・義経主従和泉三郎等御共奉る」などと記されている事柄判読出来るという。 長男久慈市吉田城配して吉田之助泰行」と称させたと伝わっている。3人の子供をそれぞれの地に配した忠衡は、心置きなく義経主従と共に北に向かう旅路就いた伝承されている。 また、臼杵藩帰参家の佐藤氏系図によれば、忠衡の妾が、熱田神宮潜入して生まれた敏衡という男子が匿われて育ち加藤氏の祖になったとあり、 忠衡―敏衡―親敏―忠之―親衡―正之―正房 と上記家系続いたという。 また、石川県能登地方には忠衡が能登逃れて泉家の祖となったという伝承があり、県木アテはこのとき忠衡が奥州からもたらしたもの、あるいは後代子孫である当時の泉家当主先祖の地から持ち帰ったものという説がある。

※この「子孫に関する伝承」の解説は、「藤原忠衡」の解説の一部です。
「子孫に関する伝承」を含む「藤原忠衡」の記事については、「藤原忠衡」の概要を参照ください。

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