子孫に関する伝承
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『岩手県姓氏歴史人物大辞典』には、「奥州藤原氏系の中野氏は、祖先は藤原秀衡の三男藤原忠衡の子孫が北海道に居住」と書かれている。つまり姓氏に関する限り、忠衡に近い血脈の人物が蝦夷に逃れた事になる。 忠衡生存伝説があり、義経主従と共に文治4年春、平泉を出立した一行の中に忠衡と3人の息子が含まれていたという。寛永4年(1627年)、三戸南部氏の利直(南部利直)遠野郷に八戸南部氏を移封したとき、(以後、遠野南部氏と呼ぶ)遠野南部氏の家臣に武藤氏という者姓のいたそうといい、武藤家に伝わる言い伝えが『遠野風土草』に記載されており、それによると、この武藤家の先祖は奥州平泉の藤原秀衡の三男忠衡の息子(三男)・助衡としている。助衡はその後、関東に出て武蔵野国に居を構え、源実頼に仕え、姓を武蔵に住む藤原氏ゆえに「武藤」と称したと伝えられている。その子孫は甲斐源氏武田氏に仕えたこともあったようだが、同じ源氏の甲斐南部氏が八戸根城を本拠とし下向し、八戸南部氏を称するや、その家臣新田氏に仕え一緒に下向したという。 他にも忠衡生存伝説があり、やはり3人の息子が一緒だったことは共通している。ただ三男(名前は不明)は、北行の途中、下閉伊郡川井村の落人の里に江撃という集落があり、そこに四十七代の家系を誇る「泉沢家」という旧家があり、ここに幼い三男を残し“上館”に住まわせたと伝えられており、近年までそれを示す家伝書が遺っていたそうである(現在は不明)。この説では、二男、長男も登場して、二男は下閉伊郡野田村に置いて「泉田」を称したが、のちに母方の姓を名乗って「中野」を称している。この野田村に残った二男の中野家には「義経直筆の般若経」や「弁慶直筆の書」などと共に「先祖之由来」と題した古文書まで遺されているという。 この古文書には、古い形式の漢文で、それには、 「我が大祖は・・略・・泉三郎忠衡也。・・略・・義経主従和泉三郎等御共奉る」などと記されている事柄が判読出来るという。 長男は久慈市の吉田城に配して「吉田権之助泰行」と称させたと伝わっている。3人の子供をそれぞれの地に配した忠衡は、心置きなく義経主従と共に北に向かう旅路に就いたと伝承されている。 また、臼杵藩帰参家の佐藤氏系図によれば、忠衡の妾が、熱田神宮に潜入して生まれた敏衡という男子が匿われて育ち、加藤氏の祖になったとあり、 忠衡―敏衡―親敏―忠之―親衡―正之―正房 と上記の家系が続いたという。 また、石川県能登地方には忠衡が能登に逃れて泉家の祖となったという伝承があり、県木のアテはこのとき忠衡が奥州からもたらしたもの、あるいは後代に子孫である当時の泉家当主が先祖の地から持ち帰ったものという説がある。
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