子孫の墓誌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 03:49 UTC 版)
20世紀以降、弘農楊氏の本貫地である陝西省華陰県(現在の華陰市)や隣の潼関県などでは楊氏の墓誌が多数発見されている。そのうち、北魏から隋にかけての楊氏の墓誌に祖先として言及されている楊瑤は、楊震の5世孫または6世孫で、晋の侍中、儀同三司、尚書令、城陽亭侯であったと書かれている。漢字の「瑤」と「珧」は同音かつほぼ同義で、この「楊瑤」は楊珧を指すと考えられるので、つまり、楊鈞の一族(越公房楊氏)と楊播の一族は楊珧の直系の子孫を自認していたことになる。 ただし、前述の賈南風の粛清を楊珧の子孫が生き延びたとする解釈には無理があり、唐長孺は西晋の楊氏と北魏以降の楊氏の直接的な血縁関係には否定的である。 なお、洛陽で出土した楊珧と同時代の石碑「辟雍碑」(278年)には、「儋事給事中光祿大夫關内矦珧」と書かれており、このうち詹事、給事中、光禄大夫は『晋書』の「職官志」に書かれている楊珧の肩書と一致するので、「関内侯珧」は楊珧のことで間違いない。したがって、やはり彼の名は「珧」が正しく、これらの墓誌の「瑤」は誤りである。
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