子孫の動向
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曾孫の北畠親房は南朝の中心の一角を担い活躍し、政治面だけでなく『神皇正統記』を著すなど文化面でも優れた人物であった。 親房の子孫は伊勢国司として、北畠政郷の代に戦国大名化し、北畠晴具の代には伊勢国の南半分、志摩国、伊賀の南部、大和の南部、紀伊国の東部にまでに及ぶ広大な所領を有した。晴具の息子・北畠具教の代には長野工藤氏を従わせて、北伊勢に進出した。 だが、具教は織田信長の侵攻(大河内城の戦い)に敗れ、信長の次男・織田信雄を息子・具房の養継嗣として受け入れるという屈辱的な和睦を強いられた。その後、具教は謀反を画策するが露見し、信長の命によって一族郎党もろとも討ち取られた(三瀬の変)。 しかし、晴具の息子・木造具政の娘が信雄に嫁ぎ、織田信良を生んだことによりその血脈は保たれることとなった(「系譜」を参照のこと)。その他、庶流の星合氏や藤方氏、滝川氏、田丸氏などは江戸幕府の旗本として残った。田丸氏からは江戸時代末期に田丸直允が出たが、天狗党の乱で捕縛のち処刑され宗家は断絶した。幕末まで武家として続き(『寛政重修諸家譜』)現在確認できる末裔は星合氏と雄利系滝川氏があり、武家以外では晴具の流れをくむ皇室などがある。
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子孫の動向
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筑前守の嫡男である平三郎は永禄3年(1560年)を終見史料とし、以降は足跡が途絶える。『甲陽軍鑑』によれば平三郎は武田信廉の被官に殺害されたという。金丸氏の家督は助六郎が継承し、天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際して死去している。助六郎の子孫は結城秀康の家臣となっている。 一方、筑前守の次男・昌続(昌次)は武田家の奥近習六人の一人となり、永禄4年(1561年)の川中島の戦い以降に土屋氏の名跡を継ぎ信玄の側近となる。昌続は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死し、弟の昌恒が家督を継承した。 筑前守の三男・昌詮は武田家の譜代家老・秋山虎繁(信友)の女婿となり秋山氏を継ぐが、天正7年(1579年)7月23日に病死する。その後、筑前守の七男・源三郎(親久)が同じく虎繁の女婿となり、秋山氏を継承する。源三郎は天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡の際に戦死しているが、『寛永諸家系図伝』では伊豆大平へ逃れた子孫がいたとする伝承を記している。 娘も複数おり、『寛永諸家系図伝』に拠れば多田三八郎に嫁いだという。 他にも諏訪家重臣、小澤主善にも娘を嫁がせている。
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