死後の子孫の動向
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「ハルグチュク・ドゥーレン・テムル・ホンタイジ」の記事における「死後の子孫の動向」の解説
ハルグチュクはハーンにこそならなかったものの、ハルグチュクの長男アジャイ・タイジの息子(ハルグチュクの孫)の代から後代のハーンが輩出されていった。アジャイ・タイジには長男トクトア・ブハ、次男アクバルジ、三男マンドゥールンという3人の息子がいた。 長男がタイスン・ハーンに、タイスン・ハーンの次男がマルコルギス・ハーンに、タイスン・ハーンの長男がモーラン・ハーンになったが、モーラン・ハーンの代でタイスン・ハーンの直系は絶えている。 三男にして末子がマンドゥールン・ハーンになり、4年間ハーン位にあり、娘2人がいたが、男子はいない。 次男のアクバルジ・ジノンの曾孫が政治的混乱を収拾して16世紀初めにモンゴル再統一を達成し、モンゴル中興の祖と称されるダヤン・ハーンになった((1)アクバルジ・ジノン,(2)ハルグチュク・タイジ,(3)ボルフ・ジノン,(4)ダヤン・ハーンという系図)。つまり、ダヤン・ハーンはハルグチュクの来孫、アジャイ・タイジの玄孫にあたる。 また、ダヤン・ハーン以後、ハーン位は1635年の北元滅亡までダヤン・ハーン直系の子孫が継承していった為、タイスン・ハーンの以後のハーンはハーン位を簒奪したエセン・ハーンを除いて、ハルグチュクの血筋である(但し、エセン・ハーンの父方の祖母サムル公主はハルグチュクの姉妹である為、エセン・ハーンはハルグチュクの大甥(姉妹の孫)にあたり、女系で北元皇族と血縁関係にある)。
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死後の子孫の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 22:37 UTC 版)
次男の祐清は、祐親とともに頼朝軍に捕らえられた。『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月19日条によると、頼朝は祐清にかつて自分を助けたことによる恩賞を与えようとしたが、祐清は父が頼朝の敵となっている以上その子である自分が恩賞を受けることはできないとして暇を乞うて平家に味方するために上洛し、『吾妻鏡』建久4年(1193年)6月1日条によると、平家軍に加わった祐清は北陸道の合戦で討ち死にしたという。一方で、『吾妻鏡』寿永2年(1182年)2月15日条では、祐親が自害を遂げた際、祐清が自らも頼朝に死を願い、頼朝は心ならずも祐清を誅殺したとしている。 頼朝挙兵の13年後、建久4年(1193年)5月、孫である曾我祐成・時致兄弟が、鎌倉殿として東国の主となった頼朝が催した富士の巻狩りの場で、父・祐泰の仇である祐経を討ち果たした。この事件は曾我兄弟の仇討ちとして後世に知られることになる。 なお、祐親の子孫は尾張国岩倉や東三河の東栄町周辺に移り住み、後に尾張伊東氏・備中国岡田藩藩主(初代藩主伊東長実)となったとされている。 日本画家の伊藤信次氏が昭和37年頃に調査した寺野伊藤系譜によれば伊藤信次氏は祐清の子孫であるとされている。尚、系譜作成の調査協力者には歴史家の内田旭氏、静岡葵文庫の飯塚伝太郎氏、気賀正明寺の林袋雲氏、三河郷土史家の清水伊三次氏の名前が記載されている。 孫には曾我兄弟の他、外孫として鎌倉幕府第2代執権の北条義時、有力御家人の三浦義村らがいる。
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