死後の堀尾家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 12:08 UTC 版)
一族のうち、吉晴の従兄弟の堀尾但馬や吉晴の弟氏光の子氏晴などが松江松平家に仕えた。肥後細川家にも堀尾茂助(4代目)が仕えている。 吉晴の曾孫であり忠晴の孫にも当たる石川憲之は、憲之の学問の弟子である将軍徳川綱吉に促される形で、三男の勝明を堀尾式部勝明と名乗らせ、堀尾家の祭祀を継承させんとした。勝明は貞享3年(1686年)に綱吉に拝謁し、すなわち堀尾家の復興として幕府に認定された形になる。石川家口伝に拠れば、憲之の母方(忠晴の娘)の祖母ビン姫(家康と築山殿の長女亀姫の孫)が生前に堀尾家再興を強く願っていた、と伝えられている。しかし勝明は2年後の元禄元年(1688年)6月22日に死去したため、堀尾家の再興は頓挫した。なお、憲之は慶安3年(1650年)近江膳所から忠晴が間違って破却した伊勢亀山に移封を命じられている。また、堀尾家の京都における菩提寺俊巖院は、堀尾家の断絶後は憲之が檀越になり、庭園整備・建物増築等を行い寛永13年(1636年)寺号を春光院と改称され、以後歴代石川家当主が檀越になり庇護した。 勝明死去から14年後の元禄15年(1702年)閏8月15日、旗本(のち高家旗本)に取り立てられた高家前田家の初代当主前田玄長が、綱吉の命により堀尾家祭祀を継いだとされている。前田玄以の長女は右大臣三条西実条の正室、玄以の次女は堀尾忠氏の正室で忠晴の母であった。したがって、実条と堀尾忠氏は義理の兄弟(相婿)となる。 実条の孫である大納言押小路公音の次男が、公家から旗本に取り立てられた玄長である。玄長はこの縁で玄以系の前田姓を名乗り諱に玄以の「玄」字を含めており、さらに堀尾家とも縁が無いわけではない、ということになる。さらに高家前田家は行列時の持槍の鞘の形に堀尾家の家紋・旗印である「分銅」を用いていた。明治時代に入り、高家前田家は堀尾姓で分家を届けて政府に受理されたため、明治期に至って堀尾家は復興したということになる。
※この「死後の堀尾家」の解説は、「堀尾忠晴」の解説の一部です。
「死後の堀尾家」を含む「堀尾忠晴」の記事については、「堀尾忠晴」の概要を参照ください。
- 死後の堀尾家のページへのリンク