死後の報復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:49 UTC 版)
「ラインハルト・ハイドリヒ」の記事における「死後の報復」の解説
一方チェコでは、ハイドリヒの補佐をしていたベーメン・メーレン保護領親衛隊及び警察高級指導者カール・ヘルマン・フランクが、ハイドリヒ襲撃のあった日からチェコ全土に戒厳令を敷き、大々的な捜査と報復に乗り出していた。襲撃からハイドリヒが死亡するまでの間だけですでに157人が射殺されていた。プラハの保安警察及びSD司令官のホルスト・ベーメは、プラハ近郊にある500人ほどの人口の鉱山労働者集落リディツェ村が「暗殺部隊を匿った」として、この村を報復攻撃の対象とすることをヒトラーに進言した。ヒトラーはこれを認め、1942年6月10日から11日にかけてリディツェ村虐殺が開始された。成年男性村民200人弱はその場で銃殺され、女性村民や子供は強制収容所へ送還された。 ガブツィクら暗殺部隊はプラハにある正教会の教会:聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂の地下室に隠れていたが、ゲシュタポは自首してきたカレル・チュルダ(Karel Čurda)(戦後、反逆罪で絞首刑)から協力者の居場所を吐かせ、その協力者を拷問にかけてこの場所を突き止めることに成功した。1942年6月18日朝、ハインツ・パンヴィッツ(Heinz Pannwitz)率いる750人ほどの親衛隊部隊が教会を包囲した。二時間の戦闘の後、ガブツィクら落下傘兵は自決した。教会の司祭や助手らも殺戮された。 さらにレジャーキ村も暗殺部隊を助けていたことが判明し、6月24日にこの村の虐殺が開始された。 その他にもハイドリヒ暗殺の報復や捜査のために大勢の人が拘束され、処刑された。1942年5月28日から9月1日までの間、公式に拘束されたチェコ人だけでも3188人に及び、1357人がプラハとブリュンの即決裁判で死刑判決を受けたのだった。
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