真下家所蔵文書の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:56 UTC 版)
ウィキソースに真下家所蔵文書の原文があります。 2007年には柴辻俊六が「山本勘助の虚像と実像」『武田氏研究 第36号』を発表し、東大史料編纂所所蔵「古文書雑纂」における「高崎山本家文書」の調査記録に注目した。これは1892年(明治25年)に旧上野国高崎藩士・山本家当主が所蔵文書の鑑定を依頼した際の記録で、柴辻は文書自体は質の悪い写本であるとしつつも、「山本菅助」宛武田晴信書状については一定の信憑性があるものと評価した。 2008年には、群馬県安中市の安中市学習の森ふるさと学習館による同市に居住する真下家の所蔵古文書の調査において武田氏関係文書が発見された。同年には山梨県立博物館による資料調査が実施され、「山本菅助」とその関係者とみられる5点の新出文書が確認された。なお、真下家所蔵の古文書群は当初「真下家文書」と呼称されていたが、その後の調査で本来的には真下家に伝来したものではなく蒐集した古文書であることが判明したため、現在では「真下家所蔵文書」と呼称されている。 この5点の文書は「山本菅助」宛て文書が3通、「菅助」子孫の山本氏宛てと考えられている文書が2通で、『市河文書』以来の「山本菅助」関係文書として注目されているほか、山梨県立博物館の調査により「菅助」子孫の動向も判明した。 さらに、2009年11月には静岡県沼津市で「第二十四回国民文化祭・しずおか2009」の一環として開催されていた企画展「後北条氏と沼津」において出展されていた古文書の中に、2007年に柴辻が紹介していた「山本菅助」宛武田晴信書状と同一の写本が発見された。これにより文書の所蔵家から古文書・家譜類などの「沼津山本家文書」が発見され、高崎藩士であった「山本菅助」子孫が明治後に移住していたことが判明した。 真下家所蔵文書・沼津山本家文書の発見に伴い山本菅助の研究は加速し、特に沼津山本家文書の家譜類から初代「山本菅助」の法号が『甲陽軍鑑』における山本勘助の法号と同様の「道鬼」であることが確認された。近世初頭においては「山本菅助」子孫や武田遺臣、再仕官を願った大名家の間では、初代菅助は『甲陽軍鑑』における「山本勘助」と同一視されており、両者は同一人物であると指摘されるに至った。また、真下家所蔵文書・沼津山本家文書の発見は近世初頭における武田遺臣である「菅助」子孫の再仕官に関する事情を豊富にもたらし、中世・近世移行期における大名家臣の動向に関する史料としても注目されている。 一方で、『甲陽軍鑑』における山本勘助の活躍や軍師としての役割などの点については解明されるに至らず、課題として残されている。 2010年(平成22年)には山梨県立博物館でシンボル展「実在した山本菅助」が開催され、研究成果が一般に公開された。同展ではシンポジウムも開催され、海老沼真治、丸島和洋、柴裕之、平山優らによる諸論考が発表された。なお、2013年には同シンポジウムの成果やその後の調査などが山梨県立博物館監修・海老沼真治編『「山本菅助」の実像を探る』(戎光祥出版)として刊行されている。 詳細は「真下家所蔵文書」を参照
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