「弥八」「八弥」の出自とその子孫に関する伝承とは? わかりやすく解説

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「弥八」「八弥」の出自とその子孫に関する伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 16:51 UTC 版)

岩松八弥」の記事における「「弥八」「八弥」の出自とその子孫に関する伝承」の解説

前掲「及聞秘録」の中に弥八」の出自に関する記述がある。その文意は以下のようなのである清和源氏流れをくむ「岩松次郎経家」の末孫に「幸若惣太夫」という者がいた。 父「与太夫」は三河の「一向衆門徒ノ徒乱」の際、その宗旨関わらず松平宗家忠節尽くした。 この「与太夫」の祖父が「片目弥八」である。 「弥八」が誅せられた後、その子孫殺害されたが、幼いためにその命を助けられた者がいた。この者は「幸若」の弟子となり「舞々となった。 この「一向衆門徒ノ徒乱」が永禄時代三河一向一揆を指すのならば、助けられたのは「与太夫」ということになる。しかし「舞々になった子供を「与太夫」とする明確な記述がない。またこの後記述は「幸若惣太夫」が「天下御統一之後正月三日ノ御謡始」に「御流ヲ頂戴」したというものに変わってしまうため、さらに理解困難なものとなっている。各人に関して不確かな伝承記述反映されたものと考えられる。 また「改正三河後風土記」に次のような記述がある(秋田書店刊行本上巻173より175頁)。 譜代武士岩松八弥」の出自新田氏末裔岩松氏であり、またその武功顕して、自ら「片目八弥」と称していた。 天文14年3月何の子細もなく」村正脇差をぬいて広忠突いた仕損じて逃げたところを植村新六郎討ち取られた。 1人の子処刑されたが、6歳の孫は助けられて「越中住人桃井末孫 幸若」の弟子となった。その名を「幸岩」としたがこれは「岩松」と「幸若」のそれぞれの一字合わせたのである。また成長してその名を「与太夫」とした。 その子与三太夫」は徳川秀忠の「御咄の衆」となり、剃髪して「真斎」と号したその子「忠八郎」は「舞々大夫」をゆるされた。

※この「「弥八」「八弥」の出自とその子孫に関する伝承」の解説は、「岩松八弥」の解説の一部です。
「「弥八」「八弥」の出自とその子孫に関する伝承」を含む「岩松八弥」の記事については、「岩松八弥」の概要を参照ください。

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