「弥八」「八弥」の出自とその子孫に関する伝承
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「岩松八弥」の記事における「「弥八」「八弥」の出自とその子孫に関する伝承」の解説
前掲「及聞秘録」の中に「弥八」の出自に関する記述がある。その文意は以下のようなものである。 清和源氏の流れをくむ「岩松次郎経家」の末孫に「幸若与惣太夫」という者がいた。 父「与太夫」は三河の「一向衆門徒ノ徒乱」の際、その宗旨に関わらず松平宗家に忠節を尽くした。 この「与太夫」の祖父が「片目弥八」である。 「弥八」が誅せられた後、その子孫は殺害されたが、幼いためにその命を助けられた者がいた。この者は「幸若」の弟子となり「舞々」となった。 この「一向衆門徒ノ徒乱」が永禄時代の三河一向一揆を指すのならば、助けられたのは「与太夫」ということになる。しかし「舞々」になった子供を「与太夫」とする明確な記述がない。またこの後の記述は「幸若与惣太夫」が「天下御統一之後正月三日ノ御謡始」に「御流ヲ頂戴」したというものに変わってしまうため、さらに理解が困難なものとなっている。各人に関しての不確かな伝承が記述に反映されたものと考えられる。 また「改正三河後風土記」に次のような記述がある(秋田書店刊行本上巻173より175頁)。 譜代の武士「岩松八弥」の出自は新田氏末裔の岩松氏であり、またその武功を顕して、自ら「片目八弥」と称していた。 天文14年3月「何の子細もなく」村正の脇差をぬいて広忠を突いた。仕損じて逃げたところを植村新六郎に討ち取られた。 1人の子は処刑されたが、6歳の孫は助けられて「越中の住人桃井の末孫 幸若」の弟子となった。その名を「幸岩」としたがこれは「岩松」と「幸若」のそれぞれの一字を合わせたものである。また成長してその名を「与太夫」とした。 その子「与三太夫」は徳川秀忠の「御咄の衆」となり、剃髪して「真斎」と号した。その子「忠八郎」は「舞々大夫」をゆるされた。
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