直系子孫に関する伝承とは? わかりやすく解説

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直系子孫に関する伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 23:31 UTC 版)

赤松満祐」の記事における「直系子孫に関する伝承」の解説

教康は満祐の命を受けて赤松氏存続為に17人の供回り城山城西南から脱出し室津から船で妻の従兄にあたる伊勢多気城にいる北畠教具のもとへと逃亡したこの際、教康は叔父に則繁や満祐が擁立した足利義尊と共に逃走したとされる(『建内記嘉吉元年九月二十五日条)。教具3日ほど城内滞在させたが、やがて厄介者として馬場城に身柄移した(『赤松盛衰記』)。そして教具幕府からの討伐を受けることを恐れ心証良くする為に教康を匿うことを拒絶絶望した教康は9月28日伊勢自殺して果てた。その首級10月1日京都送られ幕府によって赤松屋敷晒された。以上のように教康は19歳没した。 但し、薩摩島津家史料である『本藩人物誌』によると、教康は満祐の死後日向志布志(現鹿児島県)へ忍び下り志布志松山中島蟄居、教康の曾孫赤松肥前守義季がおり、島津義久仕えた記されている。これが事実であれば、義季は満祐の玄孫にあたり、満祐・教康父子血筋薩摩生き延び、満祐が教康に命じた赤松氏存続結果的に果たされたことになる。 『薩陽武鑑』の略系譜では、義季の養子頴娃鮫島氏から義隣が入り、義隣の子が新之丞(次郎右衛門)則春、則春の子甚右衛門則茂、則茂の養子である則正と続いている。 則春は用人として、元禄16年1703年3月11日宝永元年1704年5月21日島津吉貴参勤帰宅随行者中に見え正徳3年1713年5月3日に「赤松又十郎」宛に対す赤松家由緒関わる系図文書などを次渡している。 則茂は貞享4年1687年9月10日島津綱貴襲封の賀儀江戸留守居として見え元禄7年1695年11月島津光久死去前後江戸幕府との折衡元禄国絵図調進上野寛永寺普請関わるなど重要な役割果たし島津吉貴治世中である宝永6年1709年)頃まで活動確認されるまた、則茂には島津忠守の二男又十郎(元の名は忠雄貞享4年1687年8月23日生まれ)を養子にする件が成立したことも記録されている。又十郎赤松次郎右衛門則恒と名乗るが後に辞去正徳3年1713年7月島津吉貴から家号の「郷原」と実号の「兵雄」を拝領している。則茂の後嗣には町田右衛門俊方の二男である則正が入った。 則正は安永4年1775年)に家老職に就き赤松家上級家臣寄合)に属した。則正は安永8年1779年)に家老辞した後、翌安永9年1780年)に没している。 ちなみに則春・則茂父子用人江戸留守居として活動した時期は、元禄国絵図作製巡り島津家由緒江戸幕府側(大学頭である林信篤)にも取り沙汰され時期であったその際島津家指南した人物旗本石野八兵衛雅植(赤松氏5代当主赤松範資末裔である七条赤松家石野氏)の赤松範恭と同一人物。満祐・教康父子祖父赤松氏6代当主赤松則祐は範資の弟)であったこと、赤松氏用人江戸留守居登用されたことは無関係ではないと考えられている。石野氏が赤松氏嫡流自負し、かつ元禄14年1701年12月27日島津吉貴宛の書状において、「末々一族とハ甚右衛門儀者違申」としたように薩摩赤松氏が満祐の子孫家として特別視されていたことが窺える

※この「直系子孫に関する伝承」の解説は、「赤松満祐」の解説の一部です。
「直系子孫に関する伝承」を含む「赤松満祐」の記事については、「赤松満祐」の概要を参照ください。

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