直系子孫に関する伝承
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教康は満祐の命を受けて赤松氏存続の為に17人の供回りと城山城の西南から脱出し、室津から船で妻の従兄にあたる伊勢の多気城にいる北畠教具のもとへと逃亡した。この際、教康は叔父に則繁や満祐が擁立した足利義尊らと共に逃走したとされる(『建内記』嘉吉元年九月二十五日条)。教具は3日ほど城内に滞在させたが、やがて厄介者として馬場城に身柄を移した(『赤松盛衰記』)。そして教具は幕府からの討伐を受けることを恐れ、心証を良くする為に教康を匿うことを拒絶。絶望した教康は9月28日に伊勢で自殺して果てた。その首級は10月1日に京都に送られ、幕府によって赤松屋敷に晒された。以上のように教康は19歳で没した。 但し、薩摩の島津家の史料である『本藩人物誌』によると、教康は満祐の死後に日向志布志(現鹿児島県)へ忍び下り、志布志の松山の中島に蟄居、教康の曾孫に赤松肥前守義季がおり、島津義久に仕えたと記されている。これが事実であれば、義季は満祐の玄孫にあたり、満祐・教康父子の血筋は薩摩で生き延び、満祐が教康に命じた赤松氏存続は結果的に果たされたことになる。 『薩陽武鑑』の略系譜では、義季の養子に頴娃の鮫島氏から義隣が入り、義隣の子が新之丞(次郎右衛門)則春、則春の子が甚右衛門則茂、則茂の養子である則正と続いている。 則春は用人として、元禄16年(1703年)3月11日と宝永元年(1704年)5月21日の島津吉貴参勤・帰宅随行者中に見え、正徳3年(1713年)5月3日に「赤松又十郎」宛に対する赤松家由緒に関わる系図文書などを次渡している。 則茂は貞享4年(1687年)9月10日の島津綱貴襲封の賀儀に江戸留守居として見え、元禄7年(1695年)11月の島津光久死去前後の江戸幕府との折衡や元禄国絵図調進、上野寛永寺普請に関わるなど重要な役割を果たし、島津吉貴の治世中である宝永6年(1709年)頃まで活動が確認される。また、則茂には島津忠守の二男又十郎(元の名は忠雄。貞享4年(1687年)8月23日生まれ)を養子にする件が成立したことも記録されている。又十郎は赤松次郎右衛門則恒と名乗るが後に辞去、正徳3年(1713年)7月に島津吉貴から家号の「郷原」と実号の「兵雄」を拝領している。則茂の後嗣には町田八右衛門俊方の二男である則正が入った。 則正は安永4年(1775年)に家老職に就き、赤松家は上級家臣(寄合)に属した。則正は安永8年(1779年)に家老を辞した後、翌安永9年(1780年)に没している。 ちなみに則春・則茂父子が用人や江戸留守居として活動した時期は、元禄国絵図作製を巡り、島津家の由緒が江戸幕府側(大学頭である林信篤)にも取り沙汰された時期であった。その際に島津家に指南した人物が旗本の石野八兵衛雅植(赤松氏第5代当主・赤松範資の末裔である七条赤松家(石野氏)の赤松範恭と同一人物。満祐・教康父子の祖父で赤松氏第6代当主・赤松則祐は範資の弟)であったこと、赤松氏が用人や江戸留守居に登用されたことは無関係ではないと考えられている。石野氏が赤松氏の嫡流を自負し、かつ元禄14年(1701年)12月27日付島津吉貴宛の書状において、「末々一族とハ甚右衛門儀者違申」としたように、薩摩の赤松氏が満祐の子孫家として特別視されていたことが窺える。
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