直系・嫡系皇位継承法説への批判
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「不改常典」の記事における「直系・嫡系皇位継承法説への批判」の解説
直系・嫡系の皇位継承法説は奈良時代の詔を説明するには都合が良いが、多くの批判にさらされた。 その第一は、嫡系継承法説への批判で、嫡子がいない天智天皇に嫡系継承法を制定する動機はないというものである。天智天皇は伊賀采女との間に大友皇子(弘文天皇)を儲けたが、皇后の倭姫王との間には子がなかった。 第二は、聖武天皇に至る奈良時代の直系天皇が、天智天皇の直系ではなく、天武天皇の系統に属することである。不改常典が直系継承法だとすると、天武天皇は不改常典を破って皇位を得たことになり、その子孫が不改常典を自らの正統の拠りどころにするのは不自然である。これは直系継承法にとって特に問題となり、嫡系継承法だとすると大友皇子の資格も不完全とみなされることになる。 これに対して中野渡俊治は直系継承説批判に対する反論と同時に女性天皇の直系子孫の存在が考慮されない従来の直系継承説への批判として、天智天皇の娘である持統天皇が即位したことで彼女が生んだ草壁皇子も天智天皇の直系の孫として位置づけられ、その結果、聖武天皇に至る奈良時代の直系天皇は天武天皇の直系であると同時に天智天皇の直系でもあったとしている(中野渡は不改常典を天智天皇の娘であった元明天皇が即位時に亡き父の発言に仮託して作ったする立場を取る)。これは天武天皇の二世王(孫)である長屋王と草壁皇子・元明天皇夫妻の娘である吉備内親王の間の子が天武天皇の三世王(曾孫)ではなく元明天皇の二世王(孫)として遇されたことも、女性天皇の子孫が男性天皇の子孫と同等の身分待遇を受けたとする傍証として考えられている。 第三は、文武天皇の即位を正当化するために不改常典が使われていない点である。軽皇子(文武天皇)が若年で立太子したときに、皇族内で異論があったことは、奈良時代に作られた『懐風藻』に記されている。このときは天智の孫にあたる葛野王が直系継承を主張したが、その際天智天皇の定めた法には触れなかったようである。また、文武天皇の即位詔に、不改常典への言及はない。不改常典が直系皇位継承を定めていたのなら、それを拠りどころにして文武立太子・即位の正当性を主張することができたはずである。 第四は、元明天皇の即位詔の中で二番目に出てくる不改常典が、「不改常典と立て賜った食国法」と記されている点である。「食国」は、国をしろしめすという意味で、国の統治の意味である。ならば不改常典は統治に関する法なのであって、皇位継承に関する法ではない。 第五は、光孝天皇の即位詔に、「天日嗣高御座の業」は天智天皇が「初め賜い定め賜える法」だとある点である。「天日嗣高御座」は天皇が居る場所を指し、その業は皇位そのものか、皇位について行う統治のことで、継承方法のことではないと考えられる。
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