直系皇位継承法説と嫡系皇位継承法説
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「不改常典」の記事における「直系皇位継承法説と嫡系皇位継承法説」の解説
直系皇位継承法説は、岩橋小弥太が唱えたもので、皇位を直系男子に継承させることを定めた法であるとする。この説によれば、不改常典はその頃まで一般的だった兄弟継承を否定するために作られた。元正天皇の即位詔の第一の箇所と、聖武天皇即位と譲位の詔では、不改常典が聖武天皇の皇位継承の根拠とされている。 聖武は父の文武天皇が死んだときまだ幼く、年齢的に即位の条件を満たしていなかった。この時代は兄弟継承から父子直系の継承へと皇位継承方法が切り替わる時期にあたっており、相次ぐ早逝によって危ぶまれた天武・草壁・文武・聖武という男子直系の継承が、持統・元明・元正という中継ぎ女帝によって支えられた。兄弟継承の古い慣習に対抗するために不改常典が持ち出されたと考えると、聖武天皇の詔も元明天皇の詔も理解しやすい。 嫡系継承説はさらに限定的に、庶子への継承を否定して正妻の子に後を継がせることを定めた法だとする。嫡系皇位継承法説の根拠としては、草壁皇太子、文武天皇以降の皇位継承が嫡系継承を志向していること、律令が嫡系主義をとっていることが挙げられる。 天智天皇の制定動機については、皇位継承争いの予防、中国とそこに由来する律令の影響、大友皇子への継承の希望の三点が挙げられる。天智天皇自身の世代までは兄弟間の継承が普通で、資格者が多く、しばしば武力でライバルを殺すことによって決着が付けられた。そこで、中国の制度文化の導入に熱心だった天智天皇が、流血事を避けるために直系相続を導入しようと構想したのだろうと考える。大友皇子に関しては、天智天皇10年に大友皇子と五人の重臣が必ず守ると誓った「天皇の詔」を不改常典を指すものと考える説もある。書紀はこの「天皇の詔」の内容を記さないが、文脈から大友皇子の皇位継承を命じる詔だろうと従来から推測されていた。 直系継承を主張しながらも、兄弟継承原理を否定しようとして作られたのではなく、皇族以外の母を持つ皇子を即位させるために作られたのだとする説もある。当時の皇室では近親婚が一般的で、皇位継承者には母にも皇女であることが求められていた。そこで、伊賀采女を母に持つ大友皇子のために天智天皇が直系のみを条件とせよとする法を作り、元明天皇が藤原氏を母に持つ聖武天皇のためにこれを不改常典としてとり上げたとする。 しかしながら、この説に従えば、次の後継者に弟の天武天皇が立ったとき、不改常典は早々に破られたことになる。また、その後の皇位継承でも直系・嫡系が堅く守られたわけではない。これらについて直系・嫡系皇位継承説の論者は、法に現れた理念が他の理念や利害と衝突して実現に困難をきたすことはままあることであると説明する。 これに対して皇位の直系継承は男性天皇に限定されず女性天皇でも成立するという考えから、草壁の母である持統天皇は天智天皇の娘であり、彼女を介することで天智・持統・草壁・文武・聖武の直系皇位継承が成立しており、草壁の皇統は天武の直系であると同時に天智(-持統)の直系であったとする説もある。
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