赤松満祐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/29 13:41 UTC 版)
赤松 満祐(あかまつ みつすけ[注釈 1])は、室町時代中期の武将、守護大名である。室町幕府侍所頭人、播磨・備前・美作守護。赤松義則の嫡男[2]。兄弟に義雅、祐尚(祐之)、則繁など。従兄弟に有馬持家、満政。子に教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。
注釈
- ^ 後世、河竹黙阿弥『赤松満祐梅白籏』などからまんゆうと音読みされる場合もある。
- ^ 義教よりこの年の8月16日に任命されていた[4]。
- ^ 貞村の娘は義教の側室となっていたため特に重用されており、満祐は義雅の所領没収にあたってせめて亡父が明徳の乱の戦功で得た摂津の所領は許してほしいと嘆願したが、義教は聞き入れなかった(『建内記』3月17日条)[6]。
- ^ 『看聞御記』永享9年2月9日条では義教が些細なことから激怒して、満祐の領国である播磨・美作を没収しようとしていたと考えていたとされる[7]。
- ^ 永享12年6月21日の西園寺公名の日記。『嘉吉物語』など[7]。
- ^ 朝廷は義教の恐怖政治に不満があったため、むしろ満祐に同情的だった。だが持之の強い嘆願で下されたという[12]。
- ^ a b 後花園天皇個人はこの事件に対して激怒して治罰綸旨に同意しただけでなく、9月21日に満祐の首級が晒されたと聞くとその日のうちに検非違使別当を兼ねていた正親町三条実雅に命じて満祐の首級を請け取らせて洛中をパレードさせ、改めて近衛西洞院にあった獄舎に晒している[13]。
- ^ 西南は赤松一族の赤松満政が担当していた[14]。
- ^ 教康と同じく、応永30年(1423年)生まれで、当時19歳。
- ^ 『中原師郷記』には自殺がかなり詳細に、『大乗院日記目録』でも自害となっている。但し、『建内記』、『斎藤基恒記』では教具に殺されたとある[15]。
- ^ 『赤松系図』では満祐は「身長最短、世人、三尺入道ト号ス」とある[3]。
出典
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 14頁。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 15頁。
- ^ a b 高坂 1970, p. 168.
- ^ 高坂 1970, p. 298.
- ^ 高坂 1970, p. 206.
- ^ 高坂 1970, pp. 201, 207.
- ^ a b 高坂 1970, p. 207.
- ^ 高坂 1970, p. 205.
- ^ 瀬野 2005, p. 187.
- ^ 瀬野 2005, p. 188.
- ^ 高坂 1970, p. 222.
- ^ 高坂 1970, p. 232.
- ^ 井原今朝男『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、226頁。
- ^ 高坂 1970, p. 249.
- ^ a b 高坂 1970, p. 261.
- ^ 高坂 1970, p. 1.
- ^ 高坂 1970, p. 4.
- ^ 高坂 1970, pp. 169–170.
- ^ 高坂 1970, p. 169.
- ^ 高坂 1970, p. 243.
- ^ 高坂 1970, p. 247.
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