子女による活動の継承
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長男田中芳谷は父の死後国柱会の会長(寨主(さいしゅ))に就任した。国柱会は1945年(昭和20年)、戦災によって本部講堂を失い、また敗戦に伴い勢力は著しく減退した。国柱会は現在も「純正日蓮主義」を掲げ、在家主義と国粋主義を標榜する団体として独自に活動を行っているものの、「在家主義」や「国立戒壇」、またその独自の右翼思想も時代に埋没してかつての活況を見せていない。寨主の地位は田中家による世襲制となっている。 次男田中澤二は1928年(昭和3年)に立憲養正會の後援のもと第16回衆議院議員総選挙に東京1区から無所属で立候補。落選したが、翌1929年(昭和4年)、父の後を継ぎ立憲養正會総裁に就任した。以後同会は政治団体色を強め、各種選挙に公認候補者を擁立。衆議院選挙では当選者を出したほか、地方議会や農会には最盛期で100人を超す同会所属議員がいた。新体制運動や大政翼賛会には批判的で、1942年(昭和17年)3月17日結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。第二次世界大戦後同会は再建された。澤二は公職追放されたが、衆議院選挙では再び当選者を出した。澤二の死後は振るわず、政界再編の中で同会の勢力は大きく衰えた。以後選挙への候補者擁立は途絶えたものの、政治団体として存続した。 三男里見岸雄は国体学者となり立命館大学法学部教授を務め、同大学に国体学科を増設し主任教授。法学博士号を授与された。1924年(大正13年)12月、里見日本文化学研究所を開設、1936年(昭和11年)2月、同研究所を母体に日本国体学会を創立したほか、立正教団を興した。『天皇とプロレタリア』をはじめ多数の著作を発表、戦前・戦後を通じ言論人として活動した。『天皇及三笠宮問題』では紀元節に反対した三笠宮崇仁親王を攻撃した。 娘の田中望子(大窪梅子)は日本国体学会を引き継ぎ、記紀神話や万葉集の研究を行ったほか、天皇陵保護活動などにも取り組んだ。里見岸雄との共著作もある。 末娘の岩永蓮代は国史学や文化人類学を学び、諸国国分二寺跡保存発願者として日本全国の国分寺・国分尼寺の遺跡の調査保存運動に取り組んだ。啓蒙活動も行い、著作の出版のほか、各地国分寺遺跡地に碑を寄贈している。姉田中望子との共著作もある。蓮代の娘暉子・ホン・バーゲンは現在アメリカ・ニューオーリンズ日本人会副会長を務める。
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