皇統の移動とは? わかりやすく解説

皇統の移動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 04:58 UTC 版)

陽成天皇」の記事における「皇統の移動」の解説

陽成には同母弟・貞保親王もあり、また基経外孫である異母弟貞辰親王女御・佳珠子所生)もあったが、基経高子兄妹間の確執それぞれの憚り同母弟を押し退けて外孫擁立我が子不祥事)がある状況はいずれとも決したかったのか、あるいは幼年天皇2代続けた上の事件発生という点も考慮されたか、棚上げ的に長老格の皇族皇位継承打診された。まず陽成の曾祖父仁明天皇従弟でかつて皇太子廃され恒貞親王出家して恒寂)に白羽の矢立った拒絶される仁明異母弟である左大臣源融自薦したものの、源姓を賜って今は臣下であると反対を受ける。結局仁明皇子(陽成の祖父文徳天皇異母弟)である大叔父時康親王光孝天皇)が55歳即位することになった光孝自身皇位混乱回避のための一代限りのものと心得すべての皇子女臣籍降下させて子孫皇位伝えない意向表明した。それは皇位が陽成の近親者、特に陽成の弟であり、また藤原基経の甥でもある貞保親王に行く可能性考えて行動であった。ところが、即位から3年後仁和3年887年)、光孝は病に陥り皇位行方問題となった。が、基経高子と相変わらず仲が悪くその子である貞保親王避けていたために、基経光孝は相計って次期天皇として8月25日光孝の子である源定省皇籍復帰翌日には立太子させ、そして即日崩御した。こうして定省親王宇多天皇)が践祚したが、皇籍復帰から皇位継承に至る一気呵成動きは、はたして重篤であったろう光孝意志反映したものか疑問もあるところで、これには天皇近侍していた尚侍藤原淑子基経異母妹)の力が大きく働いており、同母兄も複数ある宇多皇位継いだのは淑子の猶子であったためと言われる。 この異例皇位継承により、皇統光孝宇多醍醐系統移り嫡流であった文徳清和―陽成の系統に再び戻ることはなかった。後に陽成は、宇多について「今の天皇はかつて私の臣下ではないかと言った宇多は陽成朝において侍従であった)という逸話『大鏡』載る。 陽成の退位後光孝系の歴代からの警戒感強く、『日本三代実録』や『新国史』の編纂は陽成に対して自己の皇統正当性主張するための史書作成であったとする説がある。 退位後幾度か歌合催していることからもうかがえるように、歌才あったようだが、自身の歌として伝わるのは『後撰和歌集』に入撰し、のちに『小倉百人一首』にも採録された下記一首のみである。この歌は妃の一人宇多の妹である釣殿宮綏子内親王にあてた歌である。 「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける」 (百人一首では「淵となりぬる」) 長命保ち上皇65年歴代1位で、2位後水尾上皇50年大きく引き離す宇多次代醍醐天皇よりも長生きし、さらに続く朱雀天皇村上天皇光孝系統による皇位継承見届けた

※この「皇統の移動」の解説は、「陽成天皇」の解説の一部です。
「皇統の移動」を含む「陽成天皇」の記事については、「陽成天皇」の概要を参照ください。

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