皇籍復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 01:29 UTC 版)
一度臣籍に降下した後には皇族に復帰することは許されないのが原則であるが、皇籍に復帰する事例も比較的多く見られた。ただし、天皇の子が無条件に親王・内親王とされた律令法の原則が親王宣下(内親王宣下)の概念が導入された時点で崩れた結果、天皇の子の身分は時の天皇の判断によって異動できるものとされ(「身分と身体の分離」)、臣籍降下と同じように皇籍復帰も可能と解釈されていたとする見解もある。 なお、以下の例の内、源朝臣定省の子達や源朝臣忠房の例は、臣籍として生まれながら、皇籍に移行した例である。これも広い意味での「皇籍復帰」に分類して論じられることが多い。 また、厳密な皇籍復帰に分類するのは困難であるが、白川伯王家(花山天皇子孫、源氏の家系。)は、神祇伯に就くと同時に「王」を称することが許されていた。 和気王(755年降下・759年復帰)天武天皇曾孫。御原王子。和気王は755年に岡真人の姓を賜って降下するが、759年に淳仁天皇の甥として皇籍に復帰する。後に765年に謀反の疑いで殺害される。和気王の子達(大伴王・長岡王・名草王・山階王・采女王ら)は父の謀反に連坐して臣籍降下を命じられるが、771年に皇籍に復帰する。 山辺真人笠(764年降下・774年復帰)天武天皇子孫。笠王。764年に三長真人を賜姓、771年に山辺真人を賜姓、774年に皇籍復帰。 厨真人厨女(769年降下・773年復帰)聖武天皇皇女。不破内親王。称徳天皇に対する呪詛事件に関わったとされて降下させられるが、3年後復帰し、内親王となる。 源朝臣是忠光孝天皇子。同母弟の定省が宇多天皇として即位したことに伴い、皇籍に復帰。 源朝臣是貞光孝天皇子。同母弟の定省が宇多天皇として即位したことに伴い、皇籍に復帰。 源朝臣定省(884年降下・887年復帰)光孝天皇子。 源姓を賜って臣籍降下後に皇族復帰し、践祚する(宇多天皇)。宇多天皇即位後、源是忠ら同腹の兄弟達も皇籍に復帰している。 源朝臣維城(887年皇籍へ)当時臣籍にあった源朝臣定省(後の宇多天皇)の子。父の皇籍復帰に伴い、自身も皇族となり、後に践祚する(醍醐天皇)。 源朝臣斉中(887年皇籍へ)臣籍にあった源朝臣定省の子。定省の皇籍復帰に伴い皇籍へ移る。 源朝臣斉世(887年皇籍へ)臣籍にあった源朝臣定省の子。定省の皇籍復帰に伴い皇籍へ移る。 源朝臣兼明(932年降下・977年復帰)醍醐天皇皇子。源姓を賜って臣籍降下し後に左大臣となる。ところが、977年勅命によって突如皇籍に復帰させられて中務卿に遷った。これは、皇族は大臣とならない当時の慣例に目を付けて、左大臣の地位を狙った藤原氏の陰謀と言われている。 源朝臣盛明醍醐天皇子。 源朝臣昭平(961年降下・977年復帰)村上天皇子。源朝臣兼明と同時に皇籍に復帰した。村上天皇の皇子の中で唯一の臣籍であった状態の解消を図る措置とされる。 源朝臣惟康(1270年降下・1287年復帰)後嵯峨天皇孫で、宗尊親王の嫡男。当初は親王宣下を受けず惟康王、征夷大将軍就任後に臣籍に降下し源朝臣の氏姓を賜り、後に皇籍に復帰し親王宣下を受ける。後に征夷大将軍を廃されて京都へ送られる。 源朝臣久良(1330年復帰)後深草天皇孫。前征夷大将軍久明親王の子。 源朝臣忠房(1319年移行)順徳天皇曾孫。臣籍として生まれたが、後宇多上皇の猶子となり、皇籍復帰する。 清棲家教(1872年降下・1888年復帰・再降下)伏見宮邦家親王子。慶応2年(1872年)に出家して佛光寺管長教応の養子となり臣籍降下。明治5年(1872年)に渋谷の名字を名乗る。明治21年(1888年)6月28日に渋谷家を離籍して皇籍復帰し、同日付で再度臣籍降下し、新たに清棲の家名を賜り、華族となって伯爵に叙される。渋谷家は家教の子渋谷隆教が相続している。家教の没後、清棲家は真田幸民伯爵第3子の幸保が承継する。
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