皇籍離脱へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 18:35 UTC 版)
「臣籍降下」も参照 これらの宮家の全員が臣籍降下(皇籍離脱)することになった直接的な契機は、1945年(昭和20年)の敗戦である。敗戦直後に短期間首相をつとめた東久邇宮稔彦王は、辞任した直後に自らの臣籍降下を昭和天皇に願い出ており、さらにそのことをマスコミにも語り、他の皇族も自分にならうことを求めたために、宮内省があわてて否定の声明を出す一幕もあった。また、賀陽宮恒憲王も天皇に同様の申し入れをしている。 より直接的な原因は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられることになり、従来の規模の皇室を維持できなくなったことである。皇室の活動にかかる予算は基本的に政府の一般会計から支出されていたが、その額は明治43年度(1910年度)に450万円で固定され、昭和22年まで変更されなかった。その間、財政規模の拡大にともなう差額は山林・有価証券・農地などの皇室独自の財源からまかなわれており、終戦前後の皇室の財政規模は約2500万円と、予算の大部分を占めるまでになっていた。これらの独自の財源が国庫に帰属したことにより、皇室はその活動費の大半を失ったのである。そこで、現在の宮家の一部が臣籍降下することになった。 この時点で、宮家は昭和天皇の弟宮である秩父・高松・三笠の3宮家(直宮家)と、伏見宮系統の11宮家があった。直宮は残すとして、その他にも、香淳皇后の実家である久邇宮家や、昭和天皇の第一皇女成子内親王の婚家である東久邇宮家などの一部の宮家に関しては皇室に残す案も出た。しかし最終的には、伏見宮系の11宮家は全て皇籍離脱させることになった。 万が一にも皇位を継ぐべきときが来るかもしれないとの御自覚の下で身をお慎しみになっていただきたい。 — 昭和22年、加藤進宮内次長の言葉 1947年(昭和22年)1月16日、皇室典範(現行)が公布、同年5月3日、日本国憲法と同日に施行された。そして、同年10月14日、皇室典範の規定に基づいて11宮家51名の皇籍離脱が行われた。これは、 第11条第1項「その意思に基き、皇室会議の議により」 第11条第2項「やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により」 及び 第14条「その意思により」 第13条「皇族の身分を離れる親王又は王の妃並びに直系卑属及びその妃は、他の皇族と婚姻した女子及びその直系卑属を除き、同時に皇族の身分を離れる」 によって、形式上、離脱する皇族それぞれの自発的な意思によるものとして行なわれた。 旧皇族たちは10月18日に宮中三殿を拝礼し、その後、昭和天皇・香淳皇后・貞明皇后への朝見の儀とお別れの夕食会が行われた。
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