賀陽宮恒憲王とは? わかりやすく解説

賀陽宮恒憲王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/15 09:01 UTC 版)

賀陽 恒憲
(賀陽宮恒憲王)
賀陽宮
続柄

全名 恒憲つねのり
身位 →(皇籍離脱
敬称 殿下 →(皇籍離脱)
出生 1900年明治33年)1月27日
大日本帝国京都府
死去 (1978-01-03) 1978年1月3日(77歳没)
日本千葉県
埋葬 豊島岡墓地
配偶者 九条敏子九条道実の5女)
子女 邦寿王
美智子女王
治憲王
章憲王
文憲王
宗憲王
健憲王
父親 賀陽宮邦憲王久邇宮朝彦親王の第2王子
母親 邦憲王妃好子後陽成天皇の8世孫)
役職 陸軍中将
軍事参議官
由良要塞司令官
第43師団
近衛混成旅団長
騎兵第2旅団
騎兵第16連隊長
騎兵第10連隊長
日清生命社友会会長
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士官候補生時代の恒憲王
称号:

賀陽宮恒憲王(かやのみや つねのりおう、1900年明治33年〉1月27日 - 1978年昭和53年〉1月3日)、のちに賀陽 恒憲(かや つねのり)は、日本旧皇族陸軍軍人神宮祭主賀陽宮邦憲王の第1王子賀陽宮第2代当主。官位陸軍大学校陸軍中将大勲位功三級に昇る。妃は九条道実公爵の五女敏子戦後皇籍離脱した。香淳皇后昭和天皇后)の従兄にあたる。

概要

王は軍人として陸軍中将に昇り東京・名古屋の各部隊の師団長や、陸軍大学校長などを歴任し早くから大戦終結の聖断を昭和天皇に求めた。 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では、賀陽宮邸が全焼。一家で宮城に避難し、表拝謁ノ間に仮宿する。天皇・皇后から罹災の御見舞金として1万円を賜る[1]。翌3月11日、昭和天皇に宮邸全焼に伴う御見舞への御礼を行うとともに、対話の通じて無条件降伏と戦争責任者の処罰以外は戦争終結の条件として考えられ得ると述べている[2]

終戦が決まると皇族臣籍降下を主張した。1947年(昭和22年)10月14日臣籍降下し、その3日後には区役所にて住民手続きし賀陽 恒憲かや つねのりとなる。臣籍降下直後に公職追放となる[3]1952年(昭和27年)解除[4])。「平民的な宮様」として国民に慕われ、生活ぶりは質素であった。他方「野球の宮様」とも称され、1934年(昭和9年)にはアメリカニューヨークヤンキー・スタジアムで試合を観戦した。終戦後、御歌所長を務めた後、日清生命社友会会長などの公職を歴任した。 王の邸宅はかつて閑院宮載仁親王久邇宮邦彦王が居住していたが、後に千鳥ヶ淵戦没者墓苑となった。

官歴

人物

乗馬が好きで、大正時代にできた日本初の乗馬クラブである神戸乗馬倶楽部主催の「全国乗馬大会」の第2回から4回までの総裁を務めた[6]

血縁

第3王子章憲王の子である賀陽正憲は第126代天皇徳仁の学友であり、民間企業勤務の後国家公務員となった。

略年表

1900年明治33年)1月27日 誕生
1920年大正9年)1月27日 貴族院議員(皇族議員)[7]
1920年(大正9年)5月 陸軍士官学校卒業(32期)
1920年(大正9年)12月 陸軍騎兵少尉・騎兵第10連隊付
1921年(大正10年)1月 騎兵第1連隊付
1921年(大正10年)5月3日 九条敏子と成婚
1923年(大正12年)7月29日 美智子女王誕生
1923年(大正12年)8月 陸軍騎兵中尉・騎兵第1連隊付
1926年(大正15年)7月 陸軍騎兵大尉
1926年(大正15年)7月3日 治憲王誕生
1926年(大正15年)12月 陸軍大学校卒業(38期)
1927年昭和2年)3月 騎兵第3連隊中隊長
1928年(昭和3年)3月 参謀本部付勤務
1928年(昭和3年)8月 参謀本部部員
1929年(昭和4年)8月17日 章憲王誕生
1931年(昭和6年)7月12日 文憲王誕生
1931年(昭和6年)8月1日 陸軍騎兵少佐
1932年(昭和7年)11月 陸軍大学校教官
1934年(昭和9年)3月 欧米出張
1935年(昭和10年)3月 陸軍騎兵中佐
1935年(昭和10年)8月1日 騎兵第10連隊長
1935年(昭和10年)11月24日 宗憲王誕生
1936年(昭和11年)12月1日 騎兵第16連隊長
1937年(昭和12年)11月1日 陸軍大学校教官
1938年(昭和13年)3月1日 陸軍騎兵大佐
1938年(昭和13年)7月15日 中支那派遣軍参謀
1939年(昭和14年)6月15日 参謀本部員
1939年(昭和14年)7月5日 大本営参謀
1940年(昭和15年)12月2日 陸軍少将・騎兵第2旅団
1941年(昭和16年)7月1日 近衛混成旅団長
1942年(昭和17年)3月2日 陸軍戸山学校
1942年(昭和17年)8月5日 建憲王誕生
1943年(昭和18年)3月1日 陸軍中将・留守第3師団
1943年(昭和18年)6月10日 第43師団
1944年(昭和19年)4月6日 留守近衛第2師団長
1944年(昭和19年)7月18日 陸軍航空総監部
1945年(昭和20年)3月9日 陸軍大学校長
1945年(昭和20年)9月16日 軍事参議官
1945年(昭和20年)11月16日 待命
1945年(昭和20年)11月17日 掌典長[8]
1945年(昭和20年)11月30日 予備役・掌典長兼御歌所
1946年(昭和21年)2月25日 免掌典長兼御歌所長[9]
1946年(昭和21年)5月23日 貴族院議員[10]
1947年(昭和22年)10月14日 皇籍離脱
1947年(昭和22年)10月15日 公職追放
1952年(昭和27年)4月8日 公職追放解除
1978年(昭和53年)1月3日 逝去

栄典

脚注

  1. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第九』東京書籍、2016年9月29日、605頁。ISBN 978-4-487-74409-1 
  2. ^ 『昭和天皇実録第九』p609
  3. ^ 朝日新聞1947年(昭和22年)10月17日二面。
  4. ^ 『朝日新聞』1952年(昭和27年)4月9日一面。
  5. ^ 『官報』第4838号「叙任及辞令」1943年(昭和18年)3月2日。
  6. ^ 神戸乗馬倶楽部の歴史”. 神戸乗馬倶楽部. 2013年5月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月6日閲覧。
  7. ^ 『官報』第2243号、1920年(大正9年)1月28日。
  8. ^ 『官報』第5658号、昭和20年11月17日、p.3、「叙任及辞令」。
  9. ^ 『官報』第5737号、昭和21年3月1日、p.4、「叙任及辞令」。
  10. ^ 『官報』第5822号、1946年(昭和21年)6月13日。
  11. ^ 『官報』第2524号「叙任及辞令」1920年12月29日。
  12. ^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」1931年(昭和6年)12月28日、742頁。
  13. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年(昭和16年)10月23日。

外部リンク


賀陽宮恒憲王

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賀陽宮」の記事における「賀陽宮恒憲王」の解説

詳細は「賀陽宮恒憲王」を参照 2代恒憲王(つねのりおう)は、1900年明治33年)に邦憲王の第1王子として誕生1921年大正10年)に公爵九条道実の五女敏子結婚。子に邦寿王美智子女王治憲王章憲王・文憲王・宗王・健憲王がいる。 陸軍士官学校陸軍大学校卒業軍人としては皇道派近かったといわれる終戦時陸軍中将一方で1931年昭和6年)に夫妻欧米エジプト訪問して国際親善にも努めている。訪米時に国力の差を痛感したことから開戦には反対論唱え開戦時には家族らに敗戦可能性説いてその際皇族をやめることになろうと語った終戦後末弟東久邇宮稔彦王とともに敗戦責任取って皇籍離脱主張GHQ指令により1947年昭和22年10月14日皇籍離脱となり、自ら区役所赴いて手続き済ませた野球愛好家東京六大学野球事業化成功したまた、1970年昭和45年)に長野県特別養護老人ホーム敬老園」を設立した1978年昭和53年)、77歳没した。 賀陽家の祭祀長男邦寿が継承したが、1986年昭和61年)に子が無いまま死没。弟の治憲が継承して2011年平成23年)に没した後は、甥の正憲(章憲の長男)が継承した。正憲には現在男子2人1996年・1998年生)いる。賀陽家と皇室の仲は菊栄親睦会常磐会通して深く、正憲は学習院初等科から学習院大学に至るまで今上天皇同窓生であった

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