皇族時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:46 UTC 版)
1910年(明治43年)、久邇宮邦彦王の第三男子として誕生。東伏見宮依仁親王・同妃周子より実子のように可愛がられており、子女がなかった同夫妻は、邦彦王と相談の上、当時9歳であった邦英王を東伏見宮に永く預かりの形で迎えることとなり、邦英王は、1919年(大正8年)10月26日の吉辰を卜して東伏見宮邸に移った。邦英王は依仁親王薨去の際は御沙汰によって葬儀の喪主を務めた。事実上、邦英王は、宮家の継承者であったといえる。しかし、旧皇室典範は、皇族に養子を認めていなかったため(第42条)、邦英王は東伏見宮を皇族としては継承することができなかった。邦英王を東伏見宮で養育することも、養子またはそれに類似した趣旨で宮内省が認めていたわけではない。 1923年(大正12年)に学習院初等科を、1928年(昭和3年)に同中等科を卒業し、同高等科へ進学した。
※この「皇族時代」の解説は、「東伏見慈洽」の解説の一部です。
「皇族時代」を含む「東伏見慈洽」の記事については、「東伏見慈洽」の概要を参照ください。
皇族時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:13 UTC 版)
1922年(大正11年)11月19日午後5時15分、久邇宮家の多嘉王と静子妃の第三王子として生まれる。 京都府立京都第一中学校を経て、1942年(昭和17年)、海軍兵学校を卒業(第71期)。同期には野村実など。同年11月19日に貴族院皇族議員となる。 1943年(昭和18年)4月2日、勲一等旭日桐花大綬章を受章し、成年式が執り行われた。同年6月1日、海軍少尉に任官。6月7日、旧皇室典範増補第1条に基づき、本人の情願により、一時金を賜って臣籍降下し、龍田伯爵家を創設する。これに伴い同日、貴族院皇族議員を失職した。昭和天皇より賜った「龍田」の家名は、近江国の久邇宮家旧領地にある龍田神社にちなんだものとされる。
※この「皇族時代」の解説は、「梨本徳彦」の解説の一部です。
「皇族時代」を含む「梨本徳彦」の記事については、「梨本徳彦」の概要を参照ください。
皇族時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 17:30 UTC 版)
高祖石敬瑭の兄の石敬儒の子として晋陽に生まれた。その後、石敬瑭の養子となる。 天福元年(936年)に石敬瑭に従って洛陽に入り、北京留守・太原尹・河東節度使に任じられた。天福3年(938年)11月には鄭王・開封尹に任じられた。天福6年(941年)には斉王・広晋尹・功徳使に転任となった。
※この「皇族時代」の解説は、「石重貴」の解説の一部です。
「皇族時代」を含む「石重貴」の記事については、「石重貴」の概要を参照ください。
皇族時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:30 UTC 版)
1922年(大正11年)4月21日午前0時45分、賀陽宮恒憲王と同妃敏子の第1男子として誕生。御七夜の4月27日に「邦寿」と命名された。 学習院中等科を経て、東京陸軍幼年学校(40期)卒業後、1941年(昭和16年)7月、陸軍士官学校(55期)を卒業。陸軍少尉に任官する。大尉時代には早淵四郎中将のもとで豊橋第一陸軍予備士官学校の教官を務め、精神訓話と戦術の講義を担当した。 1942年(昭和17年)4月、満20歳に達し、貴族院の皇族議員となる。同年12月7日に、成年式が執り行われた。 同年から南方を転戦。陸軍大尉として、1945年(昭和20年)8月15日の敗戦を迎える。1946年(昭和21年)5月23日付で、他の皇族男子と共に貴族議員議員を離職した。
※この「皇族時代」の解説は、「邦寿王」の解説の一部です。
「皇族時代」を含む「邦寿王」の記事については、「邦寿王」の概要を参照ください。
皇族時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:16 UTC 版)
1901年(明治34年)2月2日、久邇宮邦彦王と同妃俔子の第1男子として誕生し、2月9日に朝融と命名された。 1921年(大正10年)2月2日に20歳を迎え、貴族院議員となった。4月19日に成年式が執り行われた。同年7月16日に海軍兵学校(49期)を卒業し、皇族軍人の一員として海軍軍人としてのキャリアを歩む。兵学校では、華頂宮博忠王と同期生だった。 また、同年には宮中某重大事件として、妹宮良子女王と皇太子裕仁親王の婚約に際し、遺伝的要素が問題視された。久邇宮邦彦王の強硬姿勢もあって、最終的に婚約に変更は無く、事件は終息した。1924年(大正13年)頃、婚約が内定した酒井菊子との婚約を朝融王が破棄するスキャンダルが発生し、最終的に、酒井家側に落ち度はないものの同家が婚約を辞退することで決着した(後述)。 1925年(大正14年)1月26日、元帥海軍大将伏見宮博恭王第3王女の知子女王と結婚する。1929年(昭和4年)1月27日の父宮の薨去を受けて久邇宮家を継承する。妃知子女王との間に、8子を儲けた。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}後年、朝融王は侍女と関係を持ち、妊娠させる。知子女王は、事務官に父親の伏見宮博恭王に知らせないでほしいと告げる。侍女は他家へ嫁がされ、侍女の産んだ子供は、事務官の手配で農家の養子になった。侍女には5000円、養子先の農家には1万円が支給された(当時の総理大臣の年俸は1万円に満たない額だった)[要出典]。 1947年(昭和22年)5月下旬、時事新報が「皇后の単独会見」と称する記事を報じ、朝融王もこの捏造に関与していた。時事新報は記事の取り下げに抵抗したため、同年6月3日の天皇・皇后に対する取材において、皇后が自ら「(記者に会ったことは)ありません」と明確に否定する事態となった。 同年6月28日、妃知子女王が薨去する。
※この「皇族時代」の解説は、「久邇宮朝融王」の解説の一部です。
「皇族時代」を含む「久邇宮朝融王」の記事については、「久邇宮朝融王」の概要を参照ください。
皇族時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 17:09 UTC 版)
1906年(明治39年) 9月1日午後7時30分、久邇宮邦彦王の第3王女として誕生。御七夜の9月7日に「智子」と命名された。 久邇宮家は経済的なゆとりがなく、二人の姉宮である良子女王、信子女王とともに教育を受けた。1918年(大正7年)2月、良子女王が皇太子裕仁親王(当時)の妃に内定し、以降は久邇宮邸内に設けられた学問所で教育を受けることになると、信子・智子の妹宮や学友も共に学んだ。しかし、婚約を巡って宮中某重大事件が起き、この時期のことを智子女王は後年、子供心に「家の中が暗く沈んでいたように思います」と回想している。 浄土真宗の宗祖親鸞の末裔で東本願寺の住職を世襲した大谷家(伯爵家)の法嗣(法主後継者)・大谷光暢と婚約し12歳で京都へ移る。京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)を卒業。1924年(大正13年)5月3日、大谷光暢に降嫁した。東本願寺では、皇族女子と新法主の婚礼を盛大に祝賀し、その様子は写真集『久邇宮智子女王殿下 東本願寺新法主台下 御慶事画報』として刊行されている。
※この「皇族時代」の解説は、「大谷智子」の解説の一部です。
「皇族時代」を含む「大谷智子」の記事については、「大谷智子」の概要を参照ください。
皇族時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:54 UTC 版)
1926年〈大正15年〉7月3日午前8時50分、賀陽宮恒憲王と同妃敏子の第2男子として誕生。御七夜の7月9日に「治憲」と命名された。 学習院初等科・学習院中等科を経て、1943年(昭和18年)12月1日、江田島海軍兵学校(75期)に入学。井上成美中将のもとで学んだ。入校式においては皇族の生徒として紹介を受け、同期生の敬礼を受けている(広島中央放送局ニュース再録に記録あり)。 治憲王が入校した75期は生徒数が多かったため生徒は分校に振り分けられ、王は岩国分校で教育を受けた。分校においては柔道を選択、練成した。最高裁判所長官・三好達、高瀬国雄、海上幕僚長・吉田學らは75期の同期生である。敗戦後の1945年(昭和20年)10月1日、海軍兵学校を卒業。このため最終階級は少尉候補生ということになる。 1946年(昭和21年)7月3日に成年に達したため、貴族院皇族議員に就任するが、3か月後の10月8日に辞任した。兄の邦寿王ら、多くの皇族が5月23日付で辞職しており、最後の貴族院皇族議員であった。 また、本来なら皇族身位令に基づき、20歳の成年を迎えた同年7月3日以降に勲一等旭日桐花大綬章を受章すべき身位にあったが、同年5月の閣議決定で生存者叙勲が停止されため、受けることはなかった(生存者叙勲は1963年の閣議決定で再開)。
※この「皇族時代」の解説は、「賀陽治憲」の解説の一部です。
「皇族時代」を含む「賀陽治憲」の記事については、「賀陽治憲」の概要を参照ください。
皇族時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:39 UTC 版)
1901年(明治34年)11月4日、梨本宮守正王と同妃伊都子夫妻の第一女子として誕生し、11月11日に「方子」と命名された。妹に伯爵広橋真光の妻となった広橋規子。 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)のお妃候補の一人として「(梨本宮)方子女王」の名前が取り沙汰されるが、学習院女子中等科在学中に李王世子(当時)である李垠と婚約した。 方子女王が自らの婚約を知ったのは、避暑のため現在の神奈川県中郡大磯町にある梨本宮家大磯別邸に滞在していた1916年(大正5年)8月3日の早朝、手元にあった新聞を何気なく開いて記事を発見した際である。大変ショックを受けたが、母伊都子妃から宮内大臣を通じ「天皇の思し召し」であると説明を受けた。正式に梨本宮守正王から婚約を告げられた時には、「よくわかりました。大変なお役だと思いますが、ご両親のお考えのように努力してみます。」と答えた[要出典]。 しかし、伊都子妃は後年公開された日記の中で、方子女王の縁談がまとまらず、寺内正毅朝鮮総督を通じ極秘裏に李王家(日本の王公族)に縁談を申し込み、表向きは天皇の命令としたことを告白している。梨本宮家には方子女王と、妹の規子女王の姉妹しかおらず、近い将来の絶家が確実だったため、皇族との縁組を強く希望していた。 方子女王と李王世子垠の結婚に向けて、(日本の)皇族と王公族の身分の取り扱い問題が表面化し、最終的に1918年(大正7年)11月28日に皇室典範第39条が増補されて、皇族女子と王公族の結婚が容認された。 1918年(大正7年)12月8日に納采の儀が行なわれた。女子学習院卒業後、1919年(大正8年)1月25日に婚儀の予定だったが、直前に義父にあたる李太王(高宗)が脳溢血のため死去。これには日本側の陰謀による毒殺説が存在し、三・一運動の引き金ともなった。このため婚儀は延期された。李垠の服喪期間について、李王純宗を含む朝鮮側は数えで2年(実質3年)を主張したが、大正天皇は早期の結婚を要望し、皇族同様に1年の喪に服すこととなった。
※この「皇族時代」の解説は、「李方子」の解説の一部です。
「皇族時代」を含む「李方子」の記事については、「李方子」の概要を参照ください。
- 皇族時代のページへのリンク