皇族妃として
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1943年(昭和18年)10月2日に納采の儀が執り行われ、正式に婚約した。同年10月12日、結婚を控え勲一等宝冠章を賜り、翌日の10月13日に盛厚王(当時は陸軍少佐)と結婚する。第二次世界大戦中であり、皇女の婚儀とはいえ質素にとり行われ、伊勢神宮への参拝のみで新婚旅行もなかった。着用した十二単は、母・香淳皇后のものだった。姉妹の中では体格が香淳皇后によく似ており、結婚の際に体の寸法を測ったところ、皇后の結婚当時の体型とぴったりと一致したという。 夫となった盛厚王とは見合いを経ずに結婚したため、「夫婦として心を通わせるのに時間がかかった」という。そのため妹の内親王たちは形式的とは言え、見合いの場が設けられた。しかしやがて互いに愛情が湧き、円満な家庭を築いた。1945年(昭和20年)3月10日、初産でもある信彦王出産時は東京大空襲の最中であり、防空壕の中で出産した。盛厚王との間には、信彦王、文子女王、基博(前名、秀彦。壬生家養子)、真彦、優子の5人の子供をもうけた。5月25日の空襲で鳥居坂の邸宅が焼失したため、伊香保に疎開する。 8月15日の玉音放送に際しては、涙にくれる東久邇宮家の中で「さあ、これからですよ」と第1声を発した。また、今生の別れになると覚悟して、車で東京に向かい、天皇・皇后と面会した。 結婚相手が皇族であったため、成子内親王もまた皇族のままであったが、1947年(昭和22年)10月14日、東久邇宮稔彦王が皇族の身分を離れたため、皇室典範第13条の規定により夫・盛厚王と同時に皇族の身分を離れた(昭和22年宮内府告示第16号)。
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