皇族妃としてとは? わかりやすく解説

皇族妃として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:21 UTC 版)

東久邇成子」の記事における「皇族妃として」の解説

1943年昭和18年10月2日納采の儀執り行われ正式に婚約した同年10月12日結婚控え勲一等宝冠章賜り翌日10月13日盛厚王当時陸軍少佐)と結婚する第二次世界大戦中であり、皇女婚儀とはいえ質素にとり行われ伊勢神宮への参拝のみで新婚旅行もなかった。着用した十二単は、母・香淳皇后のものだった姉妹の中では体格香淳皇后によく似ており、結婚の際に体の寸法を測ったところ、皇后結婚当時体型とぴったりと一致したという。 夫となった盛厚王とは見合い経ず結婚したため、「夫婦として心を通わせるのに時間かかった」という。そのため妹の内親王たちは形式的とは言え見合いの場が設けられた。しかしやがて互いに愛情湧き円満な家庭築いた1945年昭和20年3月10日初産でもある信彦王出産時東京大空襲最中であり、防空壕の中で出産した盛厚王との間には、信彦王文子女王、基博(前名、秀彦壬生家養子)、真彦、優子の5人の子供をもうけた5月25日空襲鳥居坂邸宅焼失したため、伊香保疎開する8月15日玉音放送に際しては、涙にくれる東久邇宮家の中で「さあ、これからですよ」と第1声を発したまた、今生の別れになると覚悟して車で東京向かい天皇・皇后面会した結婚相手皇族であったため、成子内親王もまた皇族のままであったが、1947年昭和22年10月14日東久邇宮稔彦王皇族身分離れたため、皇室典範第13条規定により夫・盛厚王同時に皇族身分離れた昭和22年宮内府告示第16号)。

※この「皇族妃として」の解説は、「東久邇成子」の解説の一部です。
「皇族妃として」を含む「東久邇成子」の記事については、「東久邇成子」の概要を参照ください。

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