賀陽美智子
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美智子女王 | |
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賀陽宮家、徳大寺家 | |
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昭和前期。
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続柄 | 賀陽宮恒憲王第1王女 |
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身位 | 女王 → 降嫁 |
敬称 | 殿下 → 降嫁 |
出生 | 1923年7月29日 |
死去 | 2009年4月21日(85歳没)![]() |
配偶者 | 徳大寺斉定 |
父親 | 賀陽宮恒憲王 |
母親 | 恒憲王妃敏子 |
賀陽 美智子(かや みちこ、1923年(大正12年)7月29日 - 2009年(平成21年)4月21日)は、日本の旧皇族、賀陽宮恒憲王の第1王女。母は同妃敏子(九条道実公爵の五女)。旧名美智子女王。国際教育情報センター常務理事[1]。上皇明仁の再従姉にあたる。
略歴
1923年(大正12年)7月29日午前5時50分、賀陽宮恒憲王と同妃敏子の第1女子として誕生[2]。御七夜の8月4日に「美智子」と命名された[3]。
1943年(昭和18年)12月9日、徳大寺実厚公爵の次男徳大寺斉定との結婚が勅許。同27日、勲二等に叙せられ宝冠章を授けられる[4]。29日に徳大寺斉定に降嫁した[5]。
1945年(昭和20年)9月、離婚した[6]。二人の間に子供はいない。その後、斉定は1946年3月に戦病死した。
1958年(昭和33年)より財団法人国際教育情報センターに携わり、理事に就任し、のち理事長となる。1986年(昭和61年)より株式会社菊医会名誉会長。2008年時点では、京都筆頭門跡尼院大聖寺伝来の煎茶道「永皎流」副総裁を務めていた。2009年(平成21年)4月21日逝去。
血縁
系譜
美智子女王 | 父: 恒憲王(賀陽宮) |
祖父: 邦憲王(賀陽宮) |
曾祖父: 朝彦親王(久邇宮) |
曾祖母: 泉亭静枝子 |
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祖母: 好子 |
曾祖父: 醍醐忠順 |
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曾祖母: 不詳 |
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母: 敏子 |
祖父: 九条道実 |
曾祖父: 九条道孝 |
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曾祖母: 野間幾子 |
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祖母: 九条恵子 |
曾祖父: 大谷光瑩 |
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曾祖母: 大谷恒子[注釈 1] |
栄典
著作
脚注
注釈
出典
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