朝融王妃知子女王とは? わかりやすく解説

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朝融王妃知子女王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/25 16:26 UTC 版)

朝融王妃 知子女王
久邇宮
続柄 伏見宮博恭王第3王女子

全名 知子(ともこ)
身位 女王王妃
敬称 殿下
出生 (1907-05-18) 1907年5月18日
日本東京府東京市麹町区
(現:東京都千代田区紀尾井町)伏見若宮邸
死去 (1947-06-28) 1947年6月28日(40歳没)
日本東京都
埋葬 1947年7月5日
日本・東京都文京区豊島岡墓地
配偶者 久邇宮朝融王
子女 久邇正子(正子女王)
島津朝子(朝子女王)
久邇邦昭(邦昭王)
酒井通子(通子女王)
木下英子(英子女王)
久邇朝建(朝建王)
古河典子(典子女王)
久邇朝宏(朝宏王)
父親 伏見宮博恭王
母親 博恭王妃経子
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朝融王妃 知子女王(あさあきらおうひ ともこじょおう、1907年明治40年〉5月18日 - 1947年昭和22年〉6月28日)は、日本皇族伏見宮博恭王同妃経子の第3王女子。久邇宮朝融王香淳皇后の義姉。

生涯

1907年明治40年)5月18日午前10時45分、伏見宮博恭王同妃経子の第3王女子(第6子)として誕生。15分先に生まれた敦子女王清棲幸保伯爵夫人)とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である[1]。双生児であることは誕生当初から公表され[2]、2人は引き離されることなく、ともに養育された。1925年大正14年)に結婚し、朝融王妃となる。1947年(昭和22年)、皇籍離脱の約4か月前に40歳で薨去

栄典

血縁

脚注

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  1. ^ 1925年1月7日 朝日新聞「知子女王御帰京 お慶びの日も近づいて」
    "姉宮敦子女王"との記述あり
  2. ^ 1907年5月25日 朝日新聞「伏見若宮王女子御命名」
  3. ^ 『官報』第3723号、「叙任及辞令」、大正14年01月22日
  4. ^ 『官報』第2430号、「叙任及辞令」、昭和10年02月09日
  5. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

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