柴勝男とは? わかりやすく解説

柴勝男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/31 00:08 UTC 版)

柴 勝男
1951年
生誕 1901年9月4日
日本千葉県
死没 (1970-01-03) 1970年1月3日(68歳没)
所属組織 日本海軍
軍歴 1923年 - 1945年
最終階級 海軍大佐
テンプレートを表示

柴 勝男(しば かつお、1901年明治34年)9月4日 - 1970年昭和45年)1月3日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍大佐。旧姓・阿部。千葉県出身。

経歴

降伏文書調印式に出席する柴(後列右から2番目の眼鏡の人物)

農業・阿部作次郎の二男として千葉県で生まれた。私立大成中学校(現千葉県立長生高等学校)を経て、1922年6月、海軍兵学校50期)を卒業、翌年9月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、島風水雷長を経て、水雷学校専攻科で学んだ。綾波水雷長を経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を卒業する。

沼風艦長ドイツ駐在、ドイツ大使館武官補佐官艦長、海大教官、軍令部第1部員などを経て、1938年11月、海軍中佐に進級。海軍省軍務局第1課付、同課局員などを歴任し、軍務局第2課局員として太平洋戦争を迎えた。

1943年5月、海軍大佐に昇進する。1944年2月、大井の艦長として前線に出征したものの、大井は同年7月にアメリカの潜水艦フラッシャーの雷撃で沈没し、生還した。軍令部第1部員兼参謀本部員として終戦を迎え、1945年9月2日にアメリカ海軍戦艦ミズーリの艦上での行われた降伏文書調印式に日本側全権団随員で参加、同年11月に予備役に編入された。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

海軍内の親独対米強硬派の一人として知られていた。大井篤の回想によれば、8月17日に軍令部で柴が「大井君、まだ日本は負けとらん」と言い「天皇陛下は詔勅を出されたではないか」と大井が言い返すと、柴が「あいつ(陛下)は臆病だったが我々の上には大元帥陛下がいるんだ」と言ったため、大井が「違う。大元帥陛下は天皇陛下の下だ」と言い返したという[2]

親族

  • 義父:石川秀三郎(海軍少将

脚注

  1. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、70頁。NDLJP:1276156 
  2. ^ 阿川弘之・半藤一利『日本海軍、錨揚ゲ!』PHP研究所p84-85


参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会2005年
  • 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「柴勝男」の関連用語

柴勝男のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



柴勝男のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの柴勝男 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS