インド洋での活動
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「アトランティス (仮装巡洋艦)」の記事における「インド洋での活動」の解説
オーストラリア・モーリシャス間の航路へ向かった「アトランティス」は6月10日にノルウェー貨物船「ティラナ (Tirrana)」(7230トン)を発見し、砲撃を行って降伏させた。同船は拿捕され、物資や燃料の「アトランティス」への移載後、会合地点へと送られた。 7月11日、エラーマン・ライン社の「シティ・オブ・バグダード (City of Bagdad)」(7506トン)を発見。同船は爆薬が仕掛けられて沈められた。7月13日、イギリス船「ケメンダイン (Kemmendine)」(7770トン)を発見。接近したのち砲撃を行い、被弾した「ケメンダイン」は降伏したものの、大砲を発射したた船員がいたため「アトランティス」側も砲撃を再開することとなった。この発砲は、船長の命令が破損したパイプからの蒸気の噴出音で聞こえなかったことによるものであった。結局、大きな損害を受けた「ケメンダイン」は魚雷2本を使って沈められた。 7月29日、「アトランティス」は「ティラナ」と合流。「ティラナ」に捕虜を乗せて本国へ送るため、必要な燃料の移送などが行われた。8月2日、その場にノルウェーのウイルヘルムセン・ライン社の「タリーランド (Talleyrand)」(6731トン、または6732トン)が現れ、砲戦の後「タリーランド」は停船。拿捕するか検討されたが、搭載燃料が少なかったことから爆薬によって沈められた。8月5日、捕虜を乗せた「ティラナ」は「アトランティス」と別れ大西洋へ向かった。「ティラナ」はフランスまでたどり着くも、護衛の掃海艇を待っていた時にイギリス潜水艦「ツナ」によって沈められた。 8月25日夜、モーリシャス・ロドリゲス間でリヤダン・スミス・ライン社の貨物船「キング・シティ (King City)」(4744トン)を発見。同船は故障のため停船し、その動きを不審に感じたローゲは奇襲攻撃することに決め、まず魚雷を発射したが外れた。続いて砲撃が行われ、「キング・シティ」は被弾炎上した。そこに至って、相手は普通の商船であると判明し、生存者の収容後、砲撃によって「キング・シティ」は沈められた。 9月9日、ユナイテッド・モラセス社のタンカー「アセールキング (Athelking)」(9557トン)を発見、砲撃。「アセールキング」を停船させるのに砲弾91発を消費し、同船は大損害を受けて炎上した。生存者収容後、砲撃によって沈められた。 9月10日、W・トムセン社ベンラインの貨物船「ベナーティ (Benarty)」(5800トン)を発見。まず、「アトランティス」は飛行機を発進させて攻撃。続いて「アトランティス」が停船を命じ、「ベナーティ」前方に砲撃を行うと10分後にようやく停船。しかし、攻撃を受けていると発信したため「アトランティス」は砲撃を行い、船倉に命中して火災が発生した。その後は拿捕隊が乗り込み、船内の捜索後、爆薬が設置されて沈められた。 9月19日、イギリスに徴発されたフランス貨客船「コミサール・ラメル (Commissaire Ramel)」(10061トン)を発見。「コミサール・ラメル」は停船には応じたものの、位置や攻撃を受けたことを発信したため多数の砲弾を撃ち込まれて炎上。生存者収容後、砲撃によって沈められた。 10月22日、ユーゴスラビアの貨物船「ダーミター (Durmitor)」(5623トン)を発見。「ダーミター」は停船命令に応じて停船したが、SOSを発信した。「ダーミター」はスペインから塩を日本へ運ぶ途中であり、本来は拿捕できないものであるが、停船命令を受けた際にSOSを発信したこと及び、スペインで塩を積む前にカーディフからオランへ石炭を運んでいたことを理由として拿捕した。その後、「ダーミター」は会合点へと送られた。10月26日に「アトランティス」は「ダーミター」と合流し、捕虜を乗せた「ダーミター」はソマリランドへと向かった。石炭の下に空洞があり、十分な燃料がないことが発覚するも「ダーミター」はどうにかソマリランドにたどり着いた。 11月8日夜、コロンボ・シンガポール間の航路でノルウェーのタンカー「テディ (Teddy)」(6750トン、または6748トン)を発見。イギリス仮装巡洋艦「アンテノール (Antenor)」を装い、拿捕隊が乗り込むまでだまし続けることに成功した。拿捕された「テディ」を会合地点に向かわされた。11月10日、発進させた飛行機がノルウェーのタンカー「オール・ヤコブ (Ole Jacob)」(8306トン)を発見。「テディ」の時と同じ手を使い、警戒はされたものの拿捕に成功した。この後、イギリスとオーストラリアの艦艇(巡洋艦「キャンベラ」、「ケープタウン」、「ダーバン」、仮装巡洋艦「Westralia」)による捜索が実施されたが、成果なく終わっている。「オール・ヤコブ」は航空燃料1万トンを積んでおり、「テディ」のいる場所の近くの地点へと向かわされた。翌日には今度はイギリス、ブルー・ファンネル・ラインの貨物船「オードメダン (Automedon)」(7528トン)を発見。「オードメダン」は無電を発し続けたため多数の命中弾を受けて船長などが死亡し、その結果破棄されなかった多数の機密文書がドイツ側の手に渡った。その後、「オードメダン」は沈められた。11月13日、「テディ」と合流し、使えるものを移載した後「テディ」を沈めた。11月14日、「オール・ヤコブ」と合流。「オードメダン」の文書も託された捕虜も乗せた「オール・ヤコブ」は日本へ向かった。ドイツ側は「オール・ヤコブ」の航空燃料と引き換えに仮装巡洋艦用の燃料や航空機を入手し、以後しばらくは「オール・ヤコブ」は仮装巡洋艦「オリオン」の補給船となった。 この頃、仮装巡洋艦「ピンギン」では増えた捕虜を拿捕していたタンカー「ストルシュタット (Storstad)」に乗せてヨーロッパへ送ろうとしており、同船からの給油の要求が認められた「アトランティス」は12月8日に「ピンギン」および「ストルシュタット」と合流した。
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インド洋での活動
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「エムデン (軽巡洋艦・初代)」の記事における「インド洋での活動」の解説
9月3日、石炭補給のためエムデンはシムルー島沖に到着。翌日、島の湾内に入りマルコマニアからの補給を開始した。。ここでは補給船ウルムが来ているはずであったがその姿はなかった。この場所はイギリスの装甲巡洋艦ハンプシャーが捜索に訪れており、エムデンが24時間早く来ていたらハンプシャーに発見されていたところであった。翌日オランダ船が現れて24時間超過のため出港を要求し、エムデンは島を離れた。9月9日、中立国のギリシャ貨物船ポントポラスを発見。ポントポラスはイギリス軍用の石炭を運んでおり、交渉の結果船長はドイツの傭船となることを了承した。 エムデンはコロンボ・カルカッタ航路へ向かい、9月10日にはイギリス船インダスを停船させその搭載物資を移載後沈めた。翌日にもイギリス船ローバットを発見し、沈めた。カルカッタへ向かったエムデンは9月12日にはアメリカ向け貴重品を載せたイギリス船カビンガとイギリス石炭運搬船キーリンを停船させ、キーリンは食料が運び出された後13日に沈められた。9月13日にも紅茶を積んだイギリス船ディプロマットを沈めた。9月14日、沈められた船の乗組員がカビンガで解放された。またこの日石炭運搬船トラボックとイギリス貨物船クラン・マゼソンを沈めた。これらの間に出会ったイタリア船ロダリノや、解放したカビンガにより存在が知られたため、エムデンのカルカッタ沖での行動は終了した。 9月16日、エムデンはアンダマン諸島でポントポラスから石炭を補給し、その後低速のポントポラスは単独で会合場所へと向かわせた。エムデンはラングーン沖へと向かい、ノルウェー船ドヴレを発見。この船によってクラン・マゼソンの乗組員が解放された。 エムデンによる通商破壊はインド洋の連合軍通商航路に大きなパニックを巻き起こした。商船の戦時保険料が急騰し、多くの船舶が出港を見合わせた。これはたった一隻の巡洋艦による影響としては大きなものであった。
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インド洋での活動
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「大井 (軽巡洋艦)」の記事における「インド洋での活動」の解説
1943年8月末から1944年1月末まで、大井と北上は4個部隊をシンガポールとペナンからインド洋のアンダマン諸島とニコバル諸島へ輸送した。 2月27日から、大井は軽巡洋艦鬼怒、駆逐艦浦波・天霧・敷波とともにインド洋で通商破壊に従事する重巡洋艦利根・筑摩・青葉の護衛を行ったが、4月末まではほとんどシンガポール近郊やボルネオ島のバリクパパン・タラカンにいた。5月は主としてタラカン・パラオ・ソロンの間で部隊の輸送を行った。 6月の渾作戦には赤痢患者発生のため参加できず、復帰後は南西方面艦隊の移転輸送のためスラバヤからマニラへ2度航海。その任務終了後、大井は7月18日にシンガポールへ向けマニラを離れた。7月19日、大井は香港の南570海里の南シナ海でアメリカ潜水艦フラッシャーに発見された。大井が距離1400ヤード(1300m)を通過したところでフラッシャーは艦尾から魚雷を4発発射し、2発が大井の左舷に命中、1発は不発だったがもう1発が機関室で爆発した。フラッシャーはさらに、距離3500ヤードで艦首から4発の魚雷を撃ったが、それは全て外れた。駆逐艦の敷波が大井を曳航しようとしたが、17時25分、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯13度12分 東経114度52分 / 北緯13.200度 東経114.867度 / 13.200; 114.867の地点において大井は艦尾から沈没した。敷波が大井の柴勝男艦長と368人の乗組員を救助したが、153人が戦死した。 1944年9月10日、大井は除籍された。
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インド洋での活動
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「ニコラス (フリゲート)」の記事における「インド洋での活動」の解説
2010年、インド洋にて海賊の監視活動に従事。同年4月1日未明、セーシェル沖で武装勢力の小型船から銃撃を受けたため反撃。5人を拘束した後に、小型船を撃沈した。
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