インド洋からの撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 02:51 UTC 版)
「東洋艦隊 (イギリス)」の記事における「インド洋からの撤退」の解説
トリンコマリー基地を視察したサマヴィル提督にはその欠陥は明らかだった。港は十分な機能を備えておらず、断固とした攻撃に堪えられず、またスパイの目には何もかもさらけ出されていた。安全で深い錨地を持ち、適切な戦略的位置にある孤島の基地が必要だった。アッドゥ環礁が必要条件を満たしていると判断され、艦隊停泊地としてひそかに開発された。完成したアッドゥ環礁はイギリス海軍によって広範囲に利用された。 東洋艦隊はA部隊とB部隊の2つに分割された。A部隊は近代化された戦艦「ウォースパイト」と有力な2隻の艦隊航空母艦から成っていた。B部隊は鈍足のリヴェンジ級戦艦を主力とし、ケニヤのモンバサの近くのキリンディニにある新しい艦隊運用基地に根拠地を置き、日本艦隊からは比較的安全だった。しかし日本艦隊が断固とした攻撃に出た場合、2つの東洋艦隊は、個別にはもちろん、共同してもそれに対抗することはできなかった。 アンダマン諸島を日本が占領すると、東洋艦隊の主力はモルディブのアッドゥ環礁に後退した。1942年前半に南雲指揮の第一航空艦隊によるインド洋作戦が行われ、セイロン沖海戦でハーミーズなどが撃沈された。前方の艦隊停泊地は日本軍の攻撃の危険性が認識されたため、艦隊はさらにその根拠地をキリンディニ港に移した。また、インド洋の艦隊は、他の戦場が新しく有力な艦艇をより多く必要としていたため徐々に縮小され、船団護衛部隊よりわずかに多い程度にまでなった。 1942年5月、東洋艦隊はマダガスカル侵攻作戦(「アイアンクラッド作戦」)の支援を行った。これは、日本の船がヴィシー・フランス支配下地域の海軍基地を使う如何なる試みをも妨害することを目的とする作戦だった。作戦の間、東洋艦隊は、フランス海軍の艦船(2隻の特設巡洋艦、2隻のスループ、5隻の潜水艦)および日本帝国海軍の潜水艦群(「伊10」、「伊16」、「伊18」、「伊20」および「伊16」・「伊20」搭載の特殊潜航艇)と戦った。
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