インド洋とオーストラリアへの進攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:44 UTC 版)
「太平洋戦争」の記事における「インド洋とオーストラリアへの進攻」の解説
ビルマ方面に展開する日本陸軍を後方協力する形で、航空母艦を中心とした海軍の機動艦隊が、進出したインド洋で空母搭載機によるイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍機動部隊へも攻撃を加え多数の艦艇を撃沈した(セイロン沖海戦)。こうして航空戦力に大打撃を受けたイギリス東洋艦隊は日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアのキリンディニ港まで撤退することになる。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三十潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ占領下のフランスへと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。 1942年2月19日には日本軍が艦載機と陸上攻撃機によって、オーストラリアのダーウィン湾と停泊している艦船と飛行場を空襲した(ダーウィン空襲)。オーストラリア史上初の他国による本土への軍事攻撃となったが、停泊中の艦船39隻が撃沈破、30機の航空機が撃墜撃破されるなど大きな損害を被った。この後も日本軍は96回に渡ってオーストラリアを爆撃し(日本のオーストラリア空襲)、一般市民に2,000人弱の死傷者をだした。また、1942年5月には日本軍の特殊潜航艇がシドニー港を攻撃し、オーストラリア海軍の宿泊艦「クッタブル(HMAS Kuttabul)」を撃沈、その隣にいたオランダ海軍の潜水艦「K IX(K IX)」も大破してシドニー港は大混乱に陥った。日本軍の侵攻が現実的となったオーストラリアに緊張が走ったが、肝心のオーストラリア軍はシンガポールで大損害を被っていたうえ、チャーチルの要請によってエルヴィン・ロンメル率いる「ドイツ・アフリカ軍団」に対抗するため北アフリカ戦線に3個師団が派遣されており、オーストラリアのジョン・カーティン首相はルーズベルトとチャーチルにアメリカがオーストラリアの防衛に責任を持つよう要請した。ルーズベルトはフィリピンから脱出したマッカーサーを司令官とし南西太平洋方面軍を編成して、日本軍の侵攻に対抗することとした。 この頃イギリス軍は日本海軍の基地とされる危険性から、ヴィシー・フランス統治下にあったアフリカ東岸のマダガスカル島を、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、現地のヴィシー・フランス軍を援護する名目でイギリス海軍を追った日本海軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、タンカー「ブリティッシュ・ロイヤルティ」を撃沈、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させるなどの戦果を挙げている。戦争末期にはイギリス軍が反攻に転じるが、インド洋東部における日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領は終戦まで続いた。
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