出自と生年の論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 04:40 UTC 版)
生年は、長らく子年生まれの永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに同じ子年だが24歳若い康正2年(1456年)説が提唱され定説となりつつある。このため、死亡時の年齢も、従来は88歳という説だったが、現在では64歳とする説が有力となっている。 既に老いの境に入った一介の伊勢の素浪人が、妹が守護の愛妾となっていたのを頼りに駿河へ下って身を興し、後に関東を切り取る一代の梟雄となる、という武勇伝が従来小説などでよく描かれていた。 『北条記』『名将言行録』に見える駿河下向時の一節には、大道寺太郎(重時)、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛らの仲間6人(御由緒六家)と、伊勢で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残っている。『公方両将記』(『續々群書類從 第4 史伝部 3』)には、陸奥国へ下ろうとしていたが、駿河の薩埵峠で盗賊に遭い身ぐるみはがされて難渋していたところを守護の奥方の輿と出会い衣服を与えられた。それが「叔母」の北川殿であった。その縁で今川氏に仕えるようになったという話になっている。いずれも、いかにも大志を抱く素浪人にふさわしい話となっている。 江戸時代前期までは、『寛永諸家系図伝』などで後北条氏は執権北条家の嫡流の末裔(北条時行の曾孫北条行長の実子)もしくは名門伊勢氏の出と考えられていた様子であるが、江戸時代中期以降、『太閤記』の影響で戦国時代を身分の低い者が実力で身を興す「下克上の時代」と捉える考えが民衆の願望もあいまって形成され、明治時代になって定着し、戦後まで続いた。その下克上を代表する梟雄として斎藤道三、松永久秀と共に挙げられ、伊勢宗瑞(北条早雲)は身分の低い素浪人とすることが巷談などでの通説となった。
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