オゴデイの訃報とハンガリー以西からの撤退
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「バトゥ」の記事における「オゴデイの訃報とハンガリー以西からの撤退」の解説
しかし1241年12月21日にオゴデイが死去すると、ほどなくバトゥの本陣にもその訃報が届いた。1242年3月にバトゥはオゴデイの死去にともなう遠征軍全軍の帰還命令を受けると、ただちにエステルゴムを陥落させ、カダアンにベーラ4世の追撃を命じた。モンゴル軍の一部はウィーン近郊のノイシュタットまで迫ったようだが、この地域の征服は諦めドナウ流域を経由してキプチャク草原へ撤退したようである。こうしてバトゥ指揮下のモンゴル帝国西方遠征軍は、ハンガリー支配を放棄して帰国することを余儀なくされた。しかし、バトゥの支配したカルパチア山脈以東のルースィ諸国を中核とする東欧の領土は、その後のジョチ・ウルスの基盤となったのである。
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