オゴデイ家とトゥルイ家の内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:25 UTC 版)
「オゴデイ・ウルス」の記事における「オゴデイ家とトゥルイ家の内紛」の解説
オゴデイ・カアンの死後、モンゴル帝国では後継者を巡って激しい政争が繰り広げられた。オゴデイの治世に不満を募らせていたトゥルイ家ではトゥルイの長子モンケを後継者候補に擁立し、モンケと仲の良いバトゥ率いるジョチ家もこれを支持した。一方、オゴデイ家では後継者と目されていたクチュが早世していたため、オゴデイの庶長子グユクを後継者候補に立て、チャガタイ家もこれに協力した。 全体としてみると、オゴデイ次代の繁栄を維持しようとするオゴデイ家・チャガタイ家連合と、これに反発するジョチ家・トゥルイ家連合によってモンゴル帝国の派閥は2分されることとなった。 1246年のクリルタイではオゴデイの寡婦ドレゲネの強い後押しによって一旦はグユクがカアン位に即いた。しかし帝国の重鎮たるバトゥはグユクの即位を認めておらず、帝国全体の総意として即位したオゴデイに比べグユクの立場は甚だ不安定なものであった。そのため、グユクはオゴデイのように新たにウルスを創設することもなく、オゴデイ・ウルスはオゴデイ時代とさして変わらないままに留め置かれた。 2年後の1248年にグユクはエミルの自分の所領に巡幸中に急死したが、折しもジョチ・ウルスのバトゥも東方へと移動しており、この時オゴデイ・ウルスとジョチ・ウルスの間で軍事衝突が起きる寸前であったのではないか、とする説も存在する。 グユクの死後、1251年のクリルタイでバトゥとソルカクタニの後押しの下、今度こそモンケがカアン位に即いた。モンケの即位直後、オゴデイ・ウルスの有力者たちの間でクチュの息子シレムンをカアン位に就けんとするクーデター計画が進められたが、露見して多くの者が捕縛・処刑された。 この一連の政変によって失脚した有力者は多く、イルゲイやジェルメといったチンギス・カン時代からの著名な将軍でありながらその子孫が残っていない人物は、この時オゴデイ家側について没落してしまったものと考えられている。
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