オゴデイ・カアンによる整備
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「ジャムチ」の記事における「オゴデイ・カアンによる整備」の解説
チンギス・カンの後を継いで即位したオゴデイ・カアンはまず金朝遠征を行うことを決定し、これと同時にジャムチ制を整備するよう勅令を発した。1229年(オゴデイの即位年)に発布された勅令では、「各ジャムチごとに米倉を置き、百戸(ジャウン)は車を10、十戸(アルバン)は米一石を毎年納入し、使者(イルチ)が来た時には毎日肉一斤、麺一斤、米一升、酒一瓶を支給せよ」と定められていた。ここで挙げられる百戸・十戸のように、ジャムチを維持するための奉仕を義務づけられた民戸を中国では「站戸」と呼称した。 金朝遠征を成功させた翌年の1235年には更なるジャムチの整備・拡大が進められた。この年のクリルタイでオゴデイ・カアンはジャムチの設置について以下のように語った: 使者たちが、諸王たちの下から、またカアン陛下から彼等の下へ、不可欠な用事や重要事のために往来するので、全ての国々にヤム(yām)を設置し、それをタヤン・ヤム(Tāyān yām)と読んだ。そのヤムを設置するために、使者たちを諸王たちの側から、次のように定めた……上述のアミールたちが行って、全ての地方や国々において、その地域に縦横にタヤン・ヤムを敷いた。 — 『集史』「オゴデイ・カアン紀」 更にこの後、オゴデイ・カアンは新たなる首都カラコルムの建設にあわせて、カラコルムと旧金朝領(ヒタイ)を結ぶ「37站」の整備に着手した。この時のジャムチの整備について『集史』は以下のように伝えている: [オゴデイ・カアンが]命じて、オルホン河の岸に大きな都市を建造し、カラコルムと名付けた。タヤン・ヤム以外に、漢地からその都市まで、ヤムを設置し、ナリン・ヤム(Nārīn yām)と名付けた。5ファルサング(約30㎞)ごとにヤムを置き、37のヤムができあがった。各駅ごとに千戸をそのヤムを保護するために駐屯させ、次のようなヤサを発した:『毎日、諸州から食物と飲物を満載した500台の車がそこに到着し、貯蔵庫に貯え、そこから利用するように』と。麦酒と葡萄酒のために、1台を7頭の牛で挽く大きな車を用意した。 — 『集史』「オゴデイ・カアン紀」 この「37站=ナリン・ヤム(後述するナリン道とは別物)」がどのルートであるかは諸説あるが、いずれにせよモンゴル本土-中国を結ぶ駅伝はこの時に在来ルートを元に大量の輸送が可能な駅伝として再整備されたと考えられる。 また、1238年には燕京・宣徳・西京の3路を通るジャムチを整備するよう、イェケ・ジャルグチのシギ・クトクにジャルグチ(聖旨)が降された。これら一連の整備によってモンゴル本土-中国を結ぶジャムチは大幅に拡充されて草原のメトロポリス・カラコルムの食料供給を支える要となった。後にクビライとアリク・ブケとの間で帝位継承戦争が勃発した際、クビライはこのモンゴル本土-中国を結ぶジャムチを閉ざしたが、その結果カラコルムは急速に食料不足に陥ったという。
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