オゴデイ時代のタンマチ派遣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:25 UTC 版)
「タンマチ」の記事における「オゴデイ時代のタンマチ派遣」の解説
1227年のチンギス・カンの死後、その末子トルイが次のカアンが決まるまで臨時で政務を代行した(監国)が、モンゴル帝国の周辺では反モンゴル勢力が活動を始めつつあった。とりわけ規模が大きかったのがジャラールッディーン・メングベルディー率いるホラズム・シャー朝残党の活動で、現在のイラン西部に現れたジャラールッディーンの活動によってイラン方面の治安は悪化し、モンゴル帝国は早急の対応を迫られた。『元朝秘史』や『聖武親征録』といった諸史料が一致して伝えるところによると、1228年に監国トルイとオゴデイは協議の上チョルマグンを長とするタンマチをイラン方面に派遣することを決定した。チョルマグン率いるタンマチは期待通りにジャラールッディーンをグルジアに追い詰めて殺害し、さらにアゼルバイジャン地方に駐地してグルジア、アルメニア、ルーム・セルジューク朝といった国々を服属させた。このイラン方面タンマチを皮切りに、モンゴル帝国の辺境地域には次々とタンマチが派遣されることとなる。 西方においてはバトゥのヨーロッパ遠征に先だってキプチャク、ルーシ、ヴォルガ・ブルガールといった現ロシア方面にタンマチが派遣され、またイラン方面軍の後詰めとしてインド方面にもダイルを指揮官とするタンマチが派遣された。一方、東方地域におけるタンマチはかつてムカリが率いていた旧金朝領駐屯軍を分割する形で編成が進められた。まず、遼東・高麗方面にはチョルマグンのイラン派遣と同年(1228年)にサリクタイを指揮官とするタンマチが派遣された。この遼東・高麗方面タンマチは前述したように計画自体はチンギス・カンの時代に進められていたと見られ、かつてムカリの指揮下にあったウヤルが契丹人軍団を率いて転属していた。 また、1229年のクリルタイでオゴデイが正式に第2代皇帝となると、即位後最初の大事業として金朝遠征が開始され、その先鋒軍としてヒタイ(華北)方面タンマチが組織された。金朝遠征軍はオゴデイ自らが指揮する中軍、トルイの指揮する右翼軍、チンギス・カンの末弟オッチギンが指揮する左翼軍からなっていたが、その中で先鋒を委ねられたのが中軍に属するテムデイ、タガチャルら率いるタンマチであった。テムデイは「五投下探馬/五部族探馬赤」と称されるかつてムカリが率いていた軍団の一部と現地徴発した漢人兵を率いて金朝に侵攻し、金朝征服後は華北一帯に駐屯した。また、かつて西夏国の領土であった陝西方面にはかつてムカリの指揮下にあった耶律禿花(トガン)率いる軍団が京兆府(長安)に駐屯し、これが後の陝西方面タンマチとなった。更に、金朝平定後人口希薄地帯になっていた河南には新設の軍団が多数配置されており、史料上では「タンマチ」と明記されていないものの、その性格からこれもタンマチの一種であったと考えられている。 以上のようなタンマチ派遣はモンゴル人の間でオゴデイ・カアンの大きな業績の一つとして認識されており、『元朝秘史』にはオゴデイ・カアンが自らの「四大功績」を語る場面で最後の1つにタンマチの派遣が挙げられている。 我が父君の大いなる玉座に即きて、父、カアンに次いで我が為したる[事業]は……また[第四の事業は]各方面の諸城の民のところに、前鋒軍(アルギンチ)として、鎮戍軍(タンマチ)を置いて、国民の『脚を地の上に、手を土の上につかせて来たことであった。』 — オゴデイ・カアン、『元朝秘史』第281節 しかし、このようなタンマチを巡る状況はオゴデイの死によって激変してゆくこととなる。
※この「オゴデイ時代のタンマチ派遣」の解説は、「タンマチ」の解説の一部です。
「オゴデイ時代のタンマチ派遣」を含む「タンマチ」の記事については、「タンマチ」の概要を参照ください。
- オゴデイ時代のタンマチ派遣のページへのリンク