オゴデイ・カアンの治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:25 UTC 版)
「オゴデイ・ウルス」の記事における「オゴデイ・カアンの治世」の解説
チンギス・カンの死後、遺言によってオゴデイがカアンに即位すると、問題になったのが末弟トゥルイの存在であった。オゴデイが僅かに4千人隊しか継承していなかったのに対しトゥルイは父直属の101の千人隊を継承しており、有する領地・兵数はオゴデイよりはるかに上であった。 そこでオゴデイはオゴデイ・ウルス及びトゥルイ・ウルスに多数の変更を加え、自らの立場を強化した。まず、オゴデイは自らの直轄する4千人隊を庶長子グユクに委ね(グユク・ウルスの成立)、トゥルイ・ウルスの中から自らに直属する1万のケシク(親衛隊)を組織した。もともとチンギス・カンが率いていた1万のケシクはそのままトゥルイと縁の深い者ばかりであったので、新編成されたケシクの隊長は全て新しく選抜された者ばかりであった。 次に、オゴデイはトゥルイ・ウルスから4千人隊を引き抜いて自らの息子コデンに与え、かつて西夏遠征時に自らの領地としていた涼州一帯にコデン・ウルスを成立させた。事実上トゥルイ家から牧民を奪うというこの措置にはチンギス・カンの定めた国体を覆すものだ、という批判がノヤンたちの中から起こったが、トゥルイの寡婦ソルカクタニ・ベキがノヤンたちを説得し納得させたという逸話が残っている。 また、自らの後継者と位置づけていたクチュを南宋攻略の司令官に任じると同時に、かつて金朝遠征時に自らの領地としていた山西南部にクチュ・ウルスを成立させた。クチュのウルスはかつてオゴデイ・ウルスが中央アジア遠征補助のため進軍ルート上に設置されたのと同様、南宋遠征の進軍ルート上にある一帯に設置されていた。更に、これと並行して「左手の五投下」に代表される独立性の高いノヤンたちをトゥルイ・ウルスから切り離して独立したウルスと認める、といった施策も行った。 以上の措置により、オゴデイ・ウルスはグユク・ウルス、コデン・ウルス、クチュ・ウルスという3つの下位ウルスを有するモンゴル帝国内における最大勢力に成長した。一方、トゥルイ・ウルスに犠牲を強いる形で自身の勢力を強化したことはオゴデイ家とトゥルイ家の遺恨を生み、オゴデイ死後の帝位を巡る内紛を誘発することとなった。
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