タタ・トゥンガとは? わかりやすく解説

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タタ・トゥンガ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/22 10:16 UTC 版)

タタ・トゥンガᠲᠠᠲᠠᠲᠤᠩᠭᠠ,Тататунга/Tatatungүa,中国語: 塔塔統阿))とは、モンゴル帝国チンギス・カンに仕えたウイグル人で、ウイグル式モンゴル文字をモンゴル帝国に広めた事で知られる。

概要

タタ・トゥンガは元来ナイマン部タヤン・カンに仕えるウイグル人で、ナイマン部の金印・金銭を管理していた。ナイマン部がチンギス・カンに滅ぼされると、タタ・トゥンガは金印を抱いて逃げたが、モンゴル軍に捕らえられてチンギス・カンの下に引き出された。

チンギス・カンはタタ・トゥンガに「タヤン・カンの領地は今や全て我が物となったのに、汝は何故印を持って逃げたのか?」と問うた所、タタ・トゥンガは「私は自らの職務として、金印を死守して主君の手に返すことを望むのみである。どうして他人の手に委ねることができようか」と答えた。チンギス・カンはこれを聞いて「忠孝の人である」と評価し、またタタ・トゥンガの持つ金印の用途について尋ねた。タタ・トゥンガは「金銭の出納、人材の委任、その他一切の事に金印を押すことで信頼ある命令書の証しとするのです」と答えた。

これを聞いたチンギス・カンは印章(タムガ)の有用性を認め、これ以後自らの発する命令文(ジャルリグ)には必ず印章を用いるよう側近の者に通達し、また印章の管理はタタ・トゥンガに一任した。

また、タタ・トゥンガはウイグル文字にも通じていたため、チンギス・カンはタタ・トゥンガに命じて太子・諸王にウイグル文字を用いてモンゴル語を記す方法を教えさせ、これによってモンゴル帝国においてウイグル式モンゴル文字の使用が広まった。

タタ・トゥンガはオゴデイ・カアンの治世に亡くなったが、その後クルク・カアン(武宗カイシャン)の時代に雁門郡公に追封された。 [1]

脚注

  1. ^ 『元史』巻124列伝11,「塔塔統阿、畏兀人也。性聡慧、善言論、深通本国文字。乃蛮大敭可汗尊之為傅、掌其金印及銭谷。太祖西征、乃蛮国亡、塔塔統阿懐印逃去、俄就擒。帝詰之曰、「大敭人民疆土、悉帰於我矣、汝負印何之」。対曰、「臣職也、将以死守、欲求故主授之耳。安敢有他」。帝曰、「忠孝人也」。問是印何用、対曰、「出納銭谷、委任人材、一切事皆用之、以為信驗耳」。帝善之、命居左右。是後凡有制旨、始用印章、仍命掌之。帝曰、「汝深知本国文字乎」。塔塔統阿悉以所蘊対、称旨、遂命教太子諸王以畏兀字書国言。太宗即位、命司内府玉璽金帛。命其妻吾和利氏為皇子哈剌察児乳母、時加賜予。塔塔統阿召諸子諭之曰、「上以汝母鞠育太子、賜予甚厚、汝等豈宜有之、当先供太子用、有餘則可分受。帝聞之、顧侍臣曰、「塔塔統阿以朕所賜先供太子、其廉介可知矣」。由是数加礼遇。以疾卒。至大三年、贈中奉大夫、追封雁門郡公。子四人、長玉笏迷失、次力渾迷失、次速羅海、次篤綿」

参考文献

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年



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