モンゴル帝国への諸勢力の帰順
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:51 UTC 版)
「モンゴル帝国」の記事における「モンゴル帝国への諸勢力の帰順」の解説
チンギス・カンは戦闘による征服活動以外に、幾度かのモンゴル高原周辺の有力諸勢力の帰順によって自勢力を遊牧政権の「国家」として段階的に発展させている。 オングトの帰順 1203年春にオン・カンの息子イルカ・セングン率いるケレイト王国軍と戦い、善戦するものの大敗を喫し、麾下の諸軍も潰走してしまった。この時バルジュナと呼ばれる湖まで落ち延び、ジョチ・カサルなど一部の供回りとともにこの湖水をすすって再起を誓ったという。程なくイルカ・セングンらが戦勝で油断していた隙をついて、コンギラト、コルラス部族などの臣従をとりつけケレイト本軍の幕営に夜襲をかけて逆にケレイト王国を制圧してしまった。この時オン・カンの弟ジャガ・ガンボが降服し、その娘たちがジョチやトルイと婚姻を結んでいる。 『元朝秘史』などによれば、この「バルジュナ湖の誓い」には敗戦以前からチンギスに付き従っていた近親や譜代家臣以外に、ゴビ砂漠以南の陰山山脈に拠点をもつオングト部族長アラクシ・テギト・クリからマー・ワラー・アンナフル方面出身のムスリム商人と思しきアサン・サルタクタイなる人物が使者としてチンギスのもとに赴き援助を行っていた。また『元史』によれば後のモンゴル帝国の筆頭書記となって帝国の財政分野などを総覧した大ビチクチ・チンカイもこの「バルジュナ湖の誓い」に加わっていたと伝えている。 翌1204年には、オングト王家が正式にチンギスに帰順し、モンゴル高原の勢力図が一変。この年のうちにタヤン・カンを討ってナイマン王国を滅ぼし、メルキト部族連合の盟主トクトアもまた敗れて逃走。ウワス・メルキト氏族の首長ダイル・ウスンは降服・帰順した。 オイラトの帰順 1208年、クドカ・ベキ率いるオイラト部族が降服・帰順しキルギスなどモンゴル高原の西部境域への制圧の足掛かりが出来た。このクドカ・ベキ家は一時チンギス・カン各王家の当主に準じるような主要王族たちと婚姻関係を結んでいる。 ウイグルの帰順 1211年、西遼に臣従していた天山ウイグル王国国王バルチュク・アルト・テギンが離反してチンギス・カンに帰順し、同じ時期にウイグル同様に臣従していたホラズム・シャー朝とカラハン朝の離叛に苦しんでいた西遼は急速に弱体化した。 これらのオングト、オイラト、ウイグルそれぞれのモンゴル帝国への帰順は、それぞれモンゴル帝国にとって重大な転機となった。オングトの援助と帰順は窮地に陥っていたチンギス・カン陣営がモンゴル高原を統一するまでに一気に躍起した契機となり、またチンカイやタタ・トゥンガらウイグル系やサルト人のアサンといった中央アジア系のムスリム勢力との接触の端緒となった。オイラトの帰順は西方境域への拡大、天山ウイグル王国の帰順は王国が保留していたウイグル系の官僚たちを取り込み、その後の中国、イラン・中央アジア方面といった農耕地域への征服を通じて支配領域を拡大して行くが、彼らウイグル系やムスリム系の財務官僚たちがこれら新期の領土における支配体制の確立に大きく寄与している。特にウイグルの帰順は、ウイグル人官僚がテュルク語文語として確立していた古典ウイグル語や漢語、イラン系言語に通じていたため、帝国経営における財務関係のノウハウや人材を提供したことや、初期だけでなくモンゴル帝国全体のその後の農耕地域支配の基礎を整備し、帝国において遊牧以外の生産・財政基盤を確立したことから、重大である。オングトやカルルク、ウイグル王家などはモンゴル帝国の地域支配の要として「駙馬王家」というモンゴル王家に準じコンギラト部族などとならぶ高い地位を得た。
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