「バルジュナ湖の誓い」
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「バルジュナ湖」の記事における「「バルジュナ湖の誓い」」の解説
12世紀末、モンゴル部キヤト氏の長チンギス・カンは西方の隣国ケレイト部と同盟を結ぶことで勢力を拡大し、13世紀初頭にはモンゴル-ケレイト同盟はタタル部・メルキト部といった有力部族を滅ぼしてモンゴル高原の過半を制圧しつつあった。しかし、同盟勢力の拡大につれモンゴル-ケレイト間の主導権争いも激しくなってゆき、ついに1203年には両軍は激突することとなった(カラ・カルジトの戦い)。この戦いに敗れたチンギス・カンは多くの臣下と離ればなれになりながらもケレイト軍の追撃を逃れ、オン・カンらの不義を責める問責状を送り、やがて「バルジュナ」の地に至った。 この時、チンギス・カンと行動をともにしていた臣下の数は少なく、1説には僅か19名しかいなかったとされる。チンギス・カンが辿り着いた時、バルジュナの水は涸れかかっており、僅かに残っていた水も濁りきっていた。そこでチンギス・カンの弟ジョチ・カサルは野馬を射てその革を矧ぎ、革を釜がわりにしてバルジュナの泥水を煮て飲んだ。バルジュナの水を飲む時、チンギス・カンは天に誓って「我をして大業なさしむるならば、我は諸人と苦楽をともにしよう。もしこの言に違うならば、バルジュナの河水の如くなろう」と述べたため、その場にいた将士で感涙しない者はいなかったという。これを後世「バルジュナの誓い」と呼び、この時チンギス・カンとともに濁水を飲んだ者達は「バルジュナト(漢文史料ではこれを『飲渾水』と意訳する)」と賞賛された。また、この時チンギス・カンは「我とともにバルジュナの水を飲む者は、後世に至るまで重用しよう」と語ったとされ、実際に「バルジュナト」の一族はモンゴル帝国-大元ウルスにおいて代々尊重された。これから凡そ70年後、シリギの乱やナヤン・カダアンの乱といった内戦で活躍したキプチャク部のトトガクに対し、クビライはかつてのバルジュナトにも劣らぬ功績である、と賞賛している。 この後、オングト部からやってきたムスリム商人アサン・サルタクタイと出会ったチンギス・カンはアサンを通じて物資、情報を手に入れ、バルジュナにてケレイト部への反撃を準備し始めた。チンギス・カンは弟ジョチ・カサルの家族がケレイト軍の捕虜となっていることを利用し、ジョチ・カサルに「家族を人質に取られたため、チンギス・カンを裏切ってオン・カンに降伏する」という演技をさせることでオン・カンと連絡を取らせ、ケレイト軍の位置を掴むことに成功した。ケレイト軍の位置を掴んだチンギス・カンは今度は逆にケレイト軍を奇襲し、ケレイト軍に壊滅的な打撃を与えることに成功した。オン・カンは逃れることができたものの部下に裏切りによって殺され、チンギス・カンは遂にケレイト部を完全に征服することに成功した。
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