「バルジュナ湖の誓い」とは? わかりやすく解説

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「バルジュナ湖の誓い」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 08:55 UTC 版)

バルジュナ湖」の記事における「「バルジュナ湖の誓い」」の解説

12世紀末、モンゴル部キヤト氏の長チンギス・カン西方隣国ケレイト部同盟を結ぶことで勢力拡大し13世紀初頭にはモンゴル-ケレイト同盟タタル部メルキト部といった有力部族を滅ぼしてモンゴル高原過半制圧しつつあった。しかし、同盟勢力の拡大につれモンゴル-ケレイト間の主導権争い激しくなってゆき、ついに1203年には両軍激突することとなった(カラ・カルジトの戦い)。この戦い敗れたチンギス・カン多く臣下離ればなれになりながらもケレイト軍の追撃逃れオン・カンらの不義責め問責状を送り、やがて「バルジュナ」の地に至った。 この時、チンギス・カン行動をともにしていた臣下の数は少なく、1説には僅か19名しかいなかったとされるチンギス・カン辿り着いた時、バルジュナの涸れかかっており、僅かに残っていた濁りきっていた。そこでチンギス・カンの弟ジョチ・カサル野馬射てその革を矧ぎ、革を釜がわりにしてバルジュナの泥水煮て飲んだ。バルジュナのを飲む時、チンギス・カンは天に誓って「我をして大業なさしむるならば、我は諸人苦楽をともにしよう。もしこの言に違うならば、バルジュナの河水如くなろう」と述べたため、その場にいた将士感涙しない者はいなかったという。これを後世「バルジュナの誓い」と呼び、この時チンギス・カンとともに濁水飲んだ者達は「バルジュナト(漢文史料ではこれを『飲渾』と意訳する)」と賞賛された。また、この時チンギス・カンは「我とともにバルジュナのを飲む者は、後世に至るまで重用しよう」と語ったとされ、実際に「バルジュナト」の一族モンゴル帝国-大元ウルスにおいて代々尊重された。これから凡そ70年後、シリギの乱ナヤン・カダアンの乱といった内戦活躍したキプチャク部のトトガク対しクビライはかつてのバルジュナトにも劣らぬ功績である、と賞賛している。 この後オングト部からやってきたムスリム商人アサン・サルタクタイ出会ったチンギス・カンアサン通じて物資情報手に入れ、バルジュナにてケレイト部への反撃準備し始めたチンギス・カンは弟ジョチ・カサル家族ケレイト軍の捕虜となっていることを利用しジョチ・カサルに「家族人質取られたため、チンギス・カン裏切ってオン・カン降伏する」という演技をさせることでオン・カン連絡取らせケレイト軍の位置を掴むことに成功したケレイト軍の位置掴んだチンギス・カン今度逆にケレイト軍を奇襲しケレイト軍に壊滅的な打撃与えることに成功したオン・カン逃れることができたものの部下裏切りによって殺されチンギス・カン遂にケレイト部を完全に征服することに成功した

※この「「バルジュナ湖の誓い」」の解説は、「バルジュナ湖」の解説の一部です。
「「バルジュナ湖の誓い」」を含む「バルジュナ湖」の記事については、「バルジュナ湖」の概要を参照ください。

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