トルカク(質子)制度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 16:40 UTC 版)
前述したようにモンゴル高原には古くから族長が他の遊牧勢力に投降する際に託身の代償としてトルカク(turγaγ)を差し出し、このトルカクが遊牧君長を警護する親衛隊になるという制度が存在していた。このトルカク制度には(1)質子を取ることで投降した勢力を牽制する、(2)質子を親衛隊の一員として君主との主従関係に取り込んで将来の幹部層の一人として薫陶する、という二つの目的があったと考えられている。 チンギス・カンの制定した「ケシク」は原則として千人隊長(ミンガン)の子弟から選抜するよう定められていたが、モンゴル帝国の征服地が拡大するにつれてモンゴル帝国に降伏した旧王国の王族がトルカクとしてケシクに入隊する事例が増えるようになった。 モンゴル帝国にトルカク(質子)を出していた属国の中で、最も著名な例が朝鮮半島の高麗王国である。高麗ではオゴデイ・カアンの治世に傍系王族の永衛公王綧を王子と偽ってトルカクに差し出して以来、その滅亡まで定期的に王族をトルカクとしてモンゴルの宮廷に差し出していた。特にクビライの即位と前後してトルカクとなった忠烈王はモンゴル人公主クトゥルク・ケルミシュを娶り、これ以後高麗王家はモンゴル宮廷とより一層親密な関係を有するようになった。 このような高麗へのトルカクの要求はしばしば高麗への抑圧的政策として否定的に評価されてきたが、現在では高麗王家とモンゴルのカアンとの結びつきを強め、駙馬(女婿)としての高麗王家の地位を高める側面があったことが評価されている。 また、明代では永楽帝が捕虜となったコムル国(チャガタイ系チュベイ王家の国家)の王子トクトを自らの側近くで仕えさせ、トクトが成長するとコムル国に送り込んで王に即位させた、という記録が残されている。これは正に大元ウルスと高麗の関係を再現させたもので、永楽帝はトクトを質子として扱うのみならず、親衛隊(ケシク)としての活動を通じて自らとの間に君臣関係を育み、改めてコムル国王にさせることで間接的にコムル国を勢力圏に入れようとしたのだと考えられている。
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