バッカニアとは? わかりやすく解説

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【バッカニア】(ばっかにあ)

Blackburn Buccaneer海賊

スーパーマリン・シミター後継機として、ブラックバーン/ホーカーシドレー社が開発した艦上攻撃機
核攻撃を含む低空侵攻主任務とする。
1953年にB-103として開発開始し1958年初飛行した。

太い胴体持ちながらエリアルール取り入れたことによって、音速に近い速度領域での抵抗減らして、高い低空機動性有する
パイロットからも、その機体形状からバナナ・ジェット (Banana Jet) の愛称でも親しまれた。
エンジンはS.1ではデハビランドジャイロン・ジュニア搭載しているが、出力不足のためS.2からはロールス・ロイススペイ搭載している。
初期型「S.1」は40機が生産され海軍納入され続いてエンジン出力30%向上させた「S.2」に生産移行した
イギリス空軍老朽化したキャンベラ爆撃機代替としてS.2をS.2Bとして採用海軍正規空母全廃した後は、海軍配備機も全て空軍移管された。
また、南アフリカにも16機が輸出された。

戦歴では、1983年レバノン紛争などに参加し退役直前1991年には湾岸戦争参加トーネードIDS投弾したレーザー誘導爆弾誘導する任務に就き参加した12機は合計226回もの任務全うし優れた低空侵攻能力一端見せた

現在は、南アフリカ輸出され機体退役しているが、民間人ジェット戦闘機飛行体験できるサンダーシティ社(ケープタウン国際空港内)にてBAeライトニングホーカーハンターと共に乗ることができる。

スペックデータ

乗員2名
全長19.33m
全高4.95m
全幅13.41m
主翼面積47.82㎡
空虚重量13,600kg
最大離陸重量28,000kg
最大兵装搭載量7,300kg
エンジンデハビランド ジャイロン・ジュニアターボジェット(推力31.6kN)×2基(S.1)
ロールス・ロイス スペイRB168-1AMk.101ターボジェット推力49.4kN)×2基(S.2)
最高速度マッハ0.92
実用上昇限度16,000m
航続距離2,268nm
戦闘行動半径518nm(Hi-Lo-Hi)
兵装AIM-9AAM
シーイーグルASM
AS-30LASM
マーテル対レーダーミサイル
ペイヴウェイレーザー誘導爆弾
454kg通常爆弾
WE177戦術核爆弾
マトラ・ロケット弾ポッド(68mmロケット弾搭載
増槽

派生型

関連リンクhttp://www.maxsafari.com/thundercity/index.htm


バッカニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 14:23 UTC 版)

「カリブ海のバッカニア」ハワード・パイル[1]

バッカニアまたはバカニア英語: buccaneer [ˌbʌkəˈnɪər][2])は、17世紀カリブ海で活動した海賊私掠船含む)の総称。後のカリブの海賊の前身にあたる。元は1630年頃からハイチ北部のトルトゥーガ島を拠点としてスペインを相手に略奪活動を始めたフランス人植民者たち(boucanier、肉を燻す者)を指していたが、その後、イングランド人やオランダ人も加わり、ジャマイカのイングランド人入植者たちが海賊という意味で「バッカニア」という言葉を使い始め定着した。

彼らはカリブ海の無法者であったが、最初はフランス、やがてイングランドやオランダの各政府は、スペインに対する略奪を許可し(私掠免許)、西インド諸島での領土戦争や経済政策に活用した。イングランドが関わるようになると本拠のトルトゥーガ島のほか、ジャマイカのポート・ロイヤルバハマ諸島ニュープロビデンス島もバッカニアの主要拠点の1つとなった。

全盛期は1660年のイングランド王政復古から1688年頃までで、この期間中は各国の海軍力が不十分のために積極的な取り締まりが行われず、むしろ第二次英蘭戦争英語版ではイングランド政府から準海軍戦力としての扱いも受けた。また、イングランド出身で有力なバッカニアであったヘンリー・モーガンは、その活躍でナイト爵を与えられ、最終的にはジャマイカの副総督にまで出世した。

17世紀末になると、スペインの弱体化とそれに伴う国際情勢の変化により、イングランドやフランスにとってはスペイン船襲撃の効果よりも、対スペイン・アメリカ貿易に支障を来している方を問題視するようになる。その結果、一転して当局による取り締まりが行われるようになり、バッカニアは衰退した。18世紀に入るとイングランドとフランスはスペイン継承戦争(1701年 - 1714年)に発展し、再びカリブ海は私掠船や海賊たちの時代となり、その戦後には、イングランド出身の黒髭バーソロミュー・ロバーツで知られるカリブの海賊の時代となる。

語源

「バッカニア(buccaneer)」の語源はアラワク語の "buccan" に由来し、これはタイノ族カリブ族が肉(通常はマナティ)をゆっくり焼いたり、燻製にする際に用いた木枠のことを意味していた。その後、同地を征服したスペイン人によってスペイン語の "bucanero" が生まれ、そこからフランス語の "boucane" に派生し、イスパニョーラ島で野生の牛や豚の肉を燻製にしていたフランス人狩人たちは "boucanier" と呼ばれるようになった。バッカニア(buccaneer)は、この "boucanier" をイングランドの植民者たちが英語に転訛したものである[3]

1684年に、アレクサンドル・エスケメラン英語版の著書『The Buccaneers of America(アメリカのバッカニアたち)』の最初の英訳が出版されるとこの時代・地域の海賊を指す一般的な言葉となった。

歴史

バッカニアの起源となったのは1625年にはイスパニョーラ島北部に定住していたフランス人植民者たちであり[4]、当初は狩猟者として生活していた。彼らは先述の通り、現地語に由来して、"boucanier" (肉を燻す者の意)と呼ばれるようになった。その後、1630年頃に彼らはスペインによってイスパニョーラ島から追い出され、近くのトルトゥーガ島に逃げ込んだ。本格的な海賊行為への移行は徐々に進んだが、その動機の一つは、スペインが彼らの放逐と、彼らの獲物となる動物の絶滅を進めていたことにあった。沖合のトルトゥーガ島はイスパニョーラ島と比較し、小さく資源が限られるも防御には適した地であり、かつ、スペインの本国と植民地間を結ぶ、輸送航路であったウィンドワード海峡を抑えるのに適していた。自身もバッカニアの一員だった過去を持ち、後にバッカニアについての著作を残したアレクサンドル・エスケメラン英語版によれば、トルトゥーガの海賊であるピエール・ル・グランが、スペイン本土に帰る途中のガレオン船を襲う先駆者であった。スペインは彼らをトルトゥーガから排除しようとしたが、むしろ島にはフランス人、オランダ人、イングランド人の冒険家などが、新たにバッカニアに加わっていった[5]。 彼らの主な標的がスペイン船であることは17世紀を通して変わらなかったが、当初は小船でウィンドワード海峡を通るガレオン船を襲うのが一般的であった。後述のようにやがてスペインと対立するヨーロッパの大国が彼らの活動を支援や奨励するようになると、広くスパニッシュ・メインやスペインのアメリカ本土植民地まで航海して、都市を略奪するほどの力を持つようになった。

バッカニアと、彼らの登場以前に西インド諸島で活動していた海賊私掠船)との違いは、同海域内に恒久的な拠点を持っていた点と言える。17世紀半ばになるとバハマ諸島ニュープロビデンス島を占拠した無法者たちの良き狩場となった。大きな港を背景に、キューバ沿岸のスペイン人を襲撃することで生計を立てていた数人の海賊たちも加わった。彼らはこの活動を「バッカニアリング(buccaneering)」と呼んでいた[6]。後述のようにイングランド政府が積極的に支援するようになると、ジャマイカポート・ロイヤルもバッカニアの主要拠点の1つとして発展していった。

上記の経緯の通り、初期のバッカニアは国際色のある集まりであり、1663年にジャマイカとトルトゥーガを拠点とする彼らは、船15隻に、英・仏・蘭の兵士が1000人近くいたと推定されている[7]。バッカニアのリーダーには、フランソワ・ロロネーダニエル・モンバールという2人のフランス人がいた。彼らは多くのスペイン船を壊滅させ、多くのスペイン人を殺害したため、「殲滅者(the Exterminator)」と呼ばれた。もう一人の著名なリーダーは、ウェールズ人のヘンリー・モーガンであり、彼はマラカイボポルトベロパナマ・シティを襲い、スペイン人らから巨額の富を略奪した。裕福となったモーガンはイングランドで足を洗い、チャールズ2世からはナイトの称号を与えられた。

バッカニアを私掠船として対スペイン政策の一環として積極的に用いることを考えたのがイングランド政府である。イングランドは国籍を問わず、彼らの領有権を認め、利益の一部を国庫に納めることと引き換えに私掠免許を与えて彼らの活動を合法化した。バッカニアたちは、ジャマイカ総督トマス・モディフォード英語版に招かれ、ポート・ロイヤルに船を停泊させることもできた。彼らはスペインの船や植民地から略奪を行い、その略奪品をポート・ロイヤルに持ち帰って、この場所をカリブ海でもっとも繁栄した街にした。中にはクリストファー・ミングス英語版のようなイングランド海軍の士官が派遣されたことすらあった。彼らの海賊活動はイングランドとスペインが戦争状態であるか否かに関わらず、行われていた。

法的立場

大きなスペインのガレオン船を攻撃するバッカニアたち。ハワード・パイル

バッカニアはスペインからすれば単なる海賊、略奪者であったが、基本的には私掠船を名乗り、多くはイングランドまたはフランス、オランダ当局からの私掠免許状を受けて活動していた。このため、多かれ少なかれ正規の任務を持っていた(一方ではしばしば単なる海賊として国籍を問わず標的にした)。 例えば、ヘンリー・モーガンの襲撃は何らかの法的な根拠が与えられており、パナマ総督が彼を(当時アフリカ北海岸に出没した海賊の総称である)「コルセア(corsair)」と呼んだ際には、激怒している[8]。 ただ、そうであっても、彼らならず者たちは法的な決まりにはほとんど関心がなく、私掠船免状が有効か否かにかかわらず、スペインを標的に略奪するためにあらゆる機会を利用した。識字率が低かった当時において、どんな形式の法的書類も私掠免許状であるかのように見せかけることが可能で、バッカニアの免状の多くは法的に無効であった可能性がある[9]。 法的に有効な免状を所持していたバッカニアでさえ、そこにある条件を守らないことがあった。例えばモーガンによる1671年のパナマ襲撃は、ジャマイカ総督が発行した委任状ではまったく許可されていないものであった。

バッカニアの法的地位は、略奪の対象となったスペインからすればもちろん無視できるものであり、捕まえた彼らを絞首刑やガロットにかけて処刑した。同時にイングランドやフランスの為政者たちは、たとえ無免許であってもバッカニアがスペインを襲撃することを黙認することがあった。

衰退

17世紀末にスペインが弱体化すると、フランスやイングランドの対スペイン・アメリカ貿易が、かえってバッカニアの襲撃によって混乱をきたし始めた。商人たちは彼らを貿易の脅威とみなし、植民地政府も同様の認識を持つようになった。特に1670年のマドリード条約によって、イングランドは公的にはスペインに対する略奪を認めないようになった。 このような政治状況の変化がバッカニアの活動に終止符を打つことになった。

しかし、18世紀に入り、スペイン継承戦争(1701年 - 1714年)が勃発して西インド諸島も戦火に見舞われると、イングランドは再び私掠船を積極的に用いた。こうして戦時中はスペインやフランスを相手に略奪に従事した者たちが戦後に海賊化し、黒髭バーソロミュー・ロバーツといった著名な海賊らによる、今日に知られるカリブの海賊の時代を迎えることとなる。

脚注

注釈

出典

  1. ^ Pyle, Howard (1921). Howard Pyle's Book of Pirates: Fiction, Fact and Fancy Concerning the Buccaneers and Marooners of the Spanish Main. New York: Harper & Brothers. オリジナルの2 October 2008時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081002094639/http://etext.lib.virginia.edu/toc/modeng/public/PylPira.html 2017年1月9日閲覧。 
  2. ^ buccaneer Cambridge Dictionary
  3. ^ Little, Benerson (2007). The Buccaneer's Realm: Pirate Life on the Spanish Main, 1674–1688. Potomac Books. https://books.google.com/books?isbn=1597971014 2017年1月9日閲覧。 
  4. ^ Tortuga – Pirate History – The Way Of The Pirates”. 2014年10月23日閲覧。
  5. ^ “buccaneer | Facts, History, & Meaning” (英語). Encyclopedia Britannica. https://www.britannica.com/topic/buccaneer 2018年10月17日閲覧。 
  6. ^ Bruce, Peter Henry (1782年5月4日). “Memoirs of Peter Henry Bruce, esq., a military officer, in the services of Prussia, Russia, and Great Britain. Containing an account of his travels in Germany, Russia, Tartary, Turkey, the West Indies, &c., as also several very interesting private anecdotes of the Czar, Peter I, of Russia”. London: T. Payne and Son. 2016年4月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月4日閲覧。
  7. ^ Clark, Sir George (1956). The Later Stuarts, 1660–1714. The Oxford History of England: Oxford University Press. pp. 326–329. ISBN 0-19-821702-1. https://archive.org/details/laterstuarts16600002clar 
  8. ^ Cawthorne, Nigel (2004), Pirates: Blood and Thunder on the High Seas, Book Sales, ISBN 0785818561, p. 92.
  9. ^ Breverton, Terry (2004). The Pirate Dictionary, Pelican, ISBN 1589802438, p. 94.

バッカニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 06:31 UTC 版)

東京新世録 オペレーションバベル」の記事における「バッカニア」の解説

劫略化身海賊のような姿の男性CRでのクレオパトラ(ファラオン)に相当する

※この「バッカニア」の解説は、「東京新世録 オペレーションバベル」の解説の一部です。
「バッカニア」を含む「東京新世録 オペレーションバベル」の記事については、「東京新世録 オペレーションバベル」の概要を参照ください。


バッカニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:19 UTC 版)

カリブ海の海賊 (歴史)」の記事における「バッカニア」の解説

バッカニア (Buccaneer) は、1630年から、1680年にかけカリブ海活動した海賊たちを指す。当初のバッカニアは「スペイン当局」から土地奪われ開拓者であり、白人開拓者によって拾われた。「バッカニア」という言葉フランス語の「ブーカネ」(boucaner)から来ており、たき火の上野生牛の保存肉を「煙で燻す」という意味だった。彼等はその技術生きているうちに海賊伝達したスペイン以外の植民地から部分的な支援得て活動し18世紀まで合法であるか、一部合法であり、あらゆる国から不定期な特赦もあった。大半場合スペイン所有する船舶襲い開拓地略奪した伝統的にバッカニアには多く風変わりな点があった。乗組員民主主義運営された。船長乗組員から選ばれ後任を選ぶこともできた。船長指揮官であると同時に戦闘員でもあった。戦闘のときは、遠くから指揮するではなく仲間一緒に戦うことが期待された。 戦利品平等に分配された。士官大きな分け前を取るときは、大きなリスク負ったか特別の技巧があるからだった。乗組員航海の間に給与支払われない場合多く戦利品分割されるまでに数か月積み上げられていた。海賊の間には強い「団結心」があった。このことで海上での戦い勝利でき、通常は高い比率貿易船勝てた。時には社会保障仕組みもあり、戦闘負傷した場合には計画的に金(かね)や金(きん)を補償した海賊離れ小島財宝埋めた話や、派手な衣装着ていたという話はある程度真実である。海賊の冨の多く雑貨売却することで積み上げられた。すなわち捕獲した船から剥ぎ取ったロープ、帆、滑車装置などだった。 バッカニアについて非民主的な側面は、大工外科医のような専門家同船させることがあったことだった。ただし、用済み場合解放された(その時まで加入志願してない場合に限る)。典型的な貧乏人海賊に加わること以外有望な選択肢少なかったことも注目すべきである海賊平等主義によって、奴隷船捕まえたときに奴隷解放したという話も伝わっている。しかし、奴隷海賊船の手伝いをさせた後で彼等売却した海賊居たという証言もある。 戦闘の時は凶暴だと見なされ、火打ち石銃(1615年発明)の専門家だったという評判だったが、1670年代以前それほど普及していなかったので信憑性は無い。 1690年からは、船籍に関係なく略奪行為を行うようになり、バカニーア姿を消した

※この「バッカニア」の解説は、「カリブ海の海賊 (歴史)」の解説の一部です。
「バッカニア」を含む「カリブ海の海賊 (歴史)」の記事については、「カリブ海の海賊 (歴史)」の概要を参照ください。

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